運命の予告

 シンガポールに向う船が二度ともやられ、その都度マニラにひきかえしたが、とうとう候補生の中の三十名程のものが、比島要員として残されることになった。その残留組に私も入ったが、喜んでよいのかどうかわからなかった。輸送船に乗って再び遭難する心配はなくなったが、レイテを攻略している敵は間もなくルソン島を襲うであろう。その事を考えると、比島残留は気の重いことであった。
 レイテに敵が上陸(十月二十日)してから、その頃(十一月下旬か)まで約一カ月経過していた。レイテへの輸送基地は、マニラの南のマッキンレーであった。われわれは先ずそこへ連れてゆかれた。或いはレイテ要員の中に入っていたのかも知れない。しかしレイテの戦況は益々不利になり、軍が補給をあきらめたのもその頃らしい。われわれは四、五日マッキンレーに滞在しただけで、トンコマンガへ移った。それから十二月の三十日に、バギオに行ったことは前項に記した通りである。
 フィリピンの高原都市バギオ、そこは至るところ松の林で埋められていた。そして夜空に輝やく星が緑色にうるむ清澄な町であった。そこで一カ月が過ぎ、一月三十日に私は見習士官に昇格、前線に配属されることになった。リンガエソ湾に上陸した敵が、既に平地部をおおよそ占領し、なお山岳地帯に向けて進撃し つつある時であった。
 私と同じ旭兵団(23師団)に配属されたもの十名、高橋という男がリーダーでバギオを降った。師団指令部はベンゲット街道のキャンプ3にあった。そこで申告をし、命令を受領した。高橋は司令部付になり、残る九名のリーダーに私が指名された。前線までは約一週間かかるが、すぐ出発するようにといって、一人二合ずつの米をくれた。 − ひどい山道を一週間行軍するのに、たった二合の米である。糧抹を何とか手に入れなければ、出かけても途中で行き倒れになるであろう。
 無駄だとは思ったが、私は道でゆきあう兵隊に「糧株はないか」 「食料を持っていないか」 と聞いてあるいた。「あるもんですか。こっちが買いたいですよ」 という類の決った返事がかえってくる。しかしなおあきらめず聞いてゆくと、一人の兵隊が「私は持っていないが、ある所は知っている」という。友軍の歩哨綿の前にキャンプ2の橋がこわされた所があり、その対岸に友軍が捨ててきた食料が山程ある。だが三分おきくらいに敵が砲をうちこんでくるから、その間隙をぬって取ってこなければならない。……この話を耳にするや否や、私はこれだと思った。方法はこれしかない。途中で行き倒れになるよりはましだ。
 全員を集めて私は次のようにいった。「私はこれから糧抹確保にゆくが、一緒に行く人は前に出てくれ。しかしこれは決死隊だから少くも半分は残ってもらいたい。残った人はあの野天風呂(山裾に温泉がわき出ていた)にでも入ってのんびりしていてくれ。残ったからといって、決してどうこう思わん。行きたいものだけ前へ出てくれ。」すると飯塚と前田が前に出た。もう一人位期待していたが、まあ三人でもいいと思って出かけた。歩哨のところへ行ってきくと、今晩は不思議に撃って来ませんという。これは天佑だと思った。しかし何時撃ち出すかわからないし、ひょっとすると敵がそこまで進んできているかも知れない。「注意して下さいよ」という歩哨の声をあとに、一本橋をわたって対岸に行った。弾で大のあいたカンメンポウの缶がごろごろある。それを手さぐりで拾い集めていると、松下と平田が来た。思いなおして追っかけてきたらしい。二人は大きな缶をぐいとかつぎあげた。
 この時手に入れた食料は九人でわけても余りがあった。その晩たらふく食べ、背嚢や雑嚢にぎっしりつめこんで、前線に赴いたのだが、やはり一週間程かかった。二合の米だけだったらどうしようもなかったろう。
 ところで、この時残った四人だが、全部戦死した。食料をとりに行った五人のうち、前田だけは、終戦近くになって死んだが、あとの四人は生還した。そこに何か運命の予告といったものがあったように思えてならない。「風呂に入ったかね」と私が帰ってから聞くと、とんでもないという顔付をして「いいや」と答えた四人。皆いい男ばかりだったのに……。
 (注)二十年一月三十一日、旭兵団(二三師団)に転属になった見習士官高橋(司令部)、後藤・平田・松下(工兵23連隊)、近藤・鈴木(歩兵64連隊)、新井・佐藤(歩兵71連隊)、前田・飯塚(八)(歩兵72連隊)。