第一線へ

 食糧が手に入ると、野天風呂に入りたいという慾望が無くなっていた。われわれは温泉から少し後退した路傍に宿営して、明日の出発に備えることにした。カンメソポウを腹一杯たべ、飽きると焼いて食べ、煮ても食べた。しかしカンメソポウにはカンメソポウの味しかない。何か変った物がないかと思ってみると近くの川べりに里芋とそっくりのものがある。掘ってみると根元も同じである。しめたと思って、これを煮て食べた。いや、食べようとして口に入れて噛んだ。しかし次の瞬間みな一様にべっと吐いた。そのいがらっぽさは只ものではない。
 ニューギニアでは、この芋を十回位ゆがいて食べたという。三、四回では到底食べられるしろ物ではない、タロイモというのは、これだということを復員してから聞いた。しかしフィリピンでわれわれがタロイモと呼んだのは、今ははっきり覚えていないが、なにか違う芋であったように思う。ニューギニア・タロイモは、比島にはそう無かった関係もあって、我々は最後までその食べ方を知らずに終った。
 只ものでないいがらっぽさと言ったが、それは誇張ではない。薄く切って乾燥したこの芋を二片ぐらい食べたため、ニューギニアでは喉がつまって死んだ人も相当いるという。
 そんな事もあって、翌朝われわれ九名は、持てるだけのカンメソポウを持ち、残りは置去りにして出かけた。−そしてベンゲット街道をものの五十米も進んだか進まぬ時に、ひどい空襲にあった。いきなり頭の上に飛来した飛行機が路上のわれわれめがけて機銃掃射をしてきたのだ。私は浅い側溝に伏せたが、体の三分の一もかくれない。二十糎ぐらい傍を機銃弾が砂 煙りをあげて走った。ひとわたり機銃掃射をしたあと、こんどは爆弾を投下しだした。姿を消したかと思うとまた現われて爆弾をおとす。前線の「洗礼」を早速受けたという感じであった。
 そこは友軍の砲兵陣地であった。昨夜砲撃をしたので、その仕返しに来たのでしょうと、砲兵があとで説明してくれたが、ひどい所に通りあわせたものである。飛行機が頭上近くいる時「後藤、おれはこの薮の中だぞ」と大きな声を出した新井という男も、「薮だと思って飛び込んでみると、頭の上に野砲がある。敵はこれを狙っているのだろう。爆弾が落ちたら俺の体は粉々になる − そうしたら新井はどうしたということになるだろうから、存在を知らせるため、大きな声を出したのだ」と釈明した。咄嗟の判断としては天晴なものだと感心したが、この男も後に戦死した。
 旭兵団はその頃、キャンプ3の南、シソン東方四八八高地の背面の山地にいた。そこにゆくのに山道を七、八日かかった。食糧を手に入れていなかったら、どうしようもないような不毛の山道であった。夜、行草していると、時々敵は照明弾を打ちあげる。無気味な明るさと沈黙が流れる。第一線の重苦しい空気が一面にただよっている−そんな或る晩、リンガエン湾への特攻隊攻撃を見た。四、五百隻の艦船から一斉にうち出される弾幕、それは美しいものであった。一隻に仮に十門の砲があったとすれば、四、五千本の火の線が立ちのぼるわけであった。特攻機は確認できなかったから、或いは幻影におびえての射撃だったかも知れないが、敵の物量の豊富さをまざまざと見せつけられる思いであった。
 二月八日に歩兵配属の友人達が別れて行った。もう二度と会えないだろうと思ったが、つとめて平然たる別れ方をした。「元気でな」というのも状況にあわないから「頑張れよ」といって見送った。私と平田と松下の三人は、工兵隊所属で、一日おくれて部隊のいる沢に到着した。見習士官にはなったものの、軍刀を海に沈めたので小銃をもたされていた。双眼銃も拳銃も持たなければ、テントさえも持たない。肩章に対して申訳ないようなみすぼらしさで部隊についた。申告を了えて平田が第一中隊、私が第二中隊、松下が第三中隊配属と決った。
 私の中隊長は落合秀正という私より一歳ちょっと若い陸軍士官学校出の中尉、他の二人の中隊長は相当年配の幹侯出身の中尉であった。どこからか中隊長が軍刀と拳銃を探してきてくれたので、どうやら将校らしい風体にはなった。