靴下に入れた米と煙草の葉

 四八八高地東方の山中にいた工兵隊に着いて、半月位してからのことと思うから、昭和二十年の二月中旬であったろう。私は同じ部隊の、中隊の違う一人の兵に米をわけてやったことがあった。そのとき私は二升位の米が入って重い背のうを背負って険しい山道を歩いていた。この頃は米の配給もますます少なくなってきていた。雑炊にして漸く一日二回食べられればいい方であった。そんな時にどうして二升もの米を持っていたかというと、一人で偵察をしていて現地民の隠しておいたのを見つけたのである。石油缶一杯位の米を見つけ、大部分部下の兵隊にわけてやったが、自分の分として二升ほどとっておいたものであった。
 その米が入っているため、背嚢が重く、青息吐息で山越えをしていた。捨てるのも勿体ないし、誰かに会ったら呉れてやろうと思っていた時に会ったのがK(名は忘れたので仮にこう記しておく。階級は上等兵だったか、一等兵だったか、これも忘れた)であった。「おい、腹はへらないか、米を持っているかね」と聞くと、「あ?」と答えてKはけげんな顔で私を見つめた。「配給は少ないだろう。足りるかい」というと「いいえ問題になりません」といって、私の休んでいるわきに腰を下した。私は背嚢の中から靴下一本分の米をとり出し、「これを食って元気を出せ」といって彼に与えた。彼はすまないような、勿体ないような顔をして手を出さなかったが「煙草の葉っぱが手に入ったら一枚でもいいから呉れよナ」というと、「はあ」と答えて米を受取った。将校が兵隊に食料をわけてくれる、まして自分の中隊の者でもない兵隊にくれるなどということはKにとって考えられない事だったのだろう。余程強い感銘を与えたものらしいことがあとでわかった。
 その後の激戦の時も苦闘の間もKには会わなかった。そして終戦になり収容所に入った。私はKの事などとっくに忘れていた。
 収容所生活も一年近く経った頃であったろうか、Kが私の幕舎を訪ねて来た。前の収容所から新しい収容所に移ったばかりのときであった。米軍は反乱の計画でもあるといけないと思ったのか、三カ月位で編成替えし、移動させた。その三度目あたりの移動の直後だったように思う。
 「後藤見習士官殿、一中隊のKです。」と言ってたずねてきた。「シソン東方の山の中で靴下一杯の米をいただいたKです。お蔭様で元気でした。……これを見習士官殿にあげようと思って……これだけはどんな時も手離すまいと思って持ちつづけてきました」と途切れがちに言って日本軍の靴下に入れたものを差し出した。「煙草の葉です」という。私は、漸く「ああ、あの時の……」と思い出して「それはわざわざ」と頭をさげて、そのよごれた靴下を受取った。その時は碁打ちに夢中になっていたのでろくろくKの詰も開かずに帰してしまったが、あとで靴下をあけてみて、その煙草の葉はかなり旧いものとわかった。戦争中に手に入れて、何時か私に会ったら渡そうと思って持ちつづけて来たものと想像された。葉はぼろぼろになり、その色もあせて灰色になっていた。何度も濡らしては干し、慣らしては干ししているうちにこんなになったのだろう。靴下も私が米を入れてやったそれのようにも見える。
 収容所に入って三カ月位は、煙草の配給が全然なかったから、全くの貴重品だった。金ペンの万年筆一本が煙草一本と交換されたのは最初のうち、やがて万年筆二本が煙草一本にまで値上りした。そんな収容所生活をKも経験した筈である。これだけの葉があれば、食糧でも何でも好きなものが手に入っただろう。だがその間も私のためにとっておいた 煙草にKは手をつけなかったのだ。「これだけは手離すまいと思って」と言ったKの言葉が思い出されて、ほろりとした。
 地獄図絵のような戦闘中に、一体何の為に戦っているのかという疑問が湧いて、戦う目標を見失いがちであった。そして「何のために戦っているのか」という疑問は直ちに「何のために生きているのか」という疑問にもつながった。苦しさ、ひもじさ、それは並一通りのものではない。
「何でこんなに苦しまなければならないのか」と思うようになり、それにマラリアでもおこると元気をなくしてしまって、落伍し野垂れ死をする事になる。そんなふうにして大半の兵隊が死んでいった。
 しかしKには、煙草の葉を私に渡さなければならないという「生きる目標」があったのだろう。わずか五合ばかりの米はすぐ無くなったろう。だがその「目標」が彼を生き続けさせ苦しみに耐えさせたのではなかったかと思うのだ。私が遠慮している彼に米を受取らせるため「蝶草の葉が手に入ったら、一枚でも」といったことが、彼を生き伸びさせる因を作り、「お蔭様で元気でした」という感謝の言葉にもつながるものであったように思えるのである。