武士は食わねど

 二月上旬四八八高地東方の山中にいる工兵隊について間もなく、将校勤務を命ぜられ、小隊長になった。そしてはじめて部下の兵隊をもつことになった。この頃部隊の兵力は半分位に減って敗残の姿を呈していたが、まだ若干ながら糧食の配給はあった。
 小隊長になってから、私は食料について二つの方針を貫く決心をした。三は食物の配給は将校も下士官も兵隊も平等でなければならないこと、もう一つは自分では決して食物の調達や獲得はしないということであった。米の配給は日に一合ぐらいから間もなく、マッチ箱一杯ぐらいになり、やがてゼロになった。自分達の手で調達し自活する以外に生きる術はない。しかし私は将校であり、小隊長であるから、自分で芋を掘ったりするのは、その権威を傷つけ、指揮力に影響する、当番兵が与える物の外は食べない、これでゆこうと決心し実行した。
 部隊について間もなく、中隊長から言われて、私は各小隊の食料事情を調べて歩いた。各小隊とも米とさつまいもとその葉を入れた雑炊を食べていた。そんな中で第三小隊長だけは例外で、固い飯をたかせていた。「これを較べてみて下さい」と当番兵が、不満をありありと顔にあらわして私に示した。兵隊達の食べているのは、米粒がどこにあるかわからないほどの雑炊、一方は固い飯を飯食三分の一程。これはひどいと思った。こんなことではいざという時、その小隊長のため命を投げ出す気にはならないだろう。食物のうらみは平時でもおそろしいという。まして飢餓状熊の戦場では陰にこもってそのはねかえりがきっと来るに相違ない、それに私は途中から赴任した若年の見習士官であるから、そのいう恨みをかってはならないと考えた。
 三月から四月頃にかけて、キャンプ・スリーで米軍と対峙している時のことであった。私の配下の兵力は十余名だったが、病人が続出して動けるのは六、七名、その半数は壕を掘ったり、陣地についていなければならないとなると、食料確保にゆけるのは三、四名。芋畑がやたらにあるわけではないから、掘ってくる芋も少なく、わずかに命をつないでいるという状態であった。
 そんな或日、一人で陣地附近の山道を歩いていると、野崎という上等兵に会った。プロボクサーあがりのごつい顔をした兵隊で、ひげを伸ばし放題にし、鋭い眼つきをしていた。日本ランキングにも名を連ねていたとかで、無口な男であった。その野崎が「小隊長」と呼びかけて、つめよるように近づいてきた。普通は「小隊長殿」というのを、彼は「殿」を省いて呼びかけたことと、そのつめ寄り方から、二人だけしかいないのをよいことに、何か不満をいって、ひょっとしたら、殴りかかる気かも知れないと思って、私はやや気色ばんだ。「何んだ」というと、彼は私のすぐ顔のところまで近寄ってきて、「小隊長、自分は長いこと兵隊の飯を食ってきたが、小隊長のような人ははじめてです」という。これまでの将校はみな兵隊より余計にたべ、それを当然の権利として主張した。将校も下士官も兵隊も平等にわけて食べろという将校にははじめて会った、というのだ。そして「今までは、芋を掘ってきても、半分は隠しておいて全部は持ち帰らなかった。だがこれからは全部持ってかえります」と彼はとつとつと言うのであった。その目は涙ぐんでいるようであり、声もだんだん感激を帯びた声になってきていた。「是非そうしてくれ。ほかの兵隊にもお前から言って、そうさせてくれよナ」と言って肩に触れ、私ははじめて自分の方針が間違っていなかったことを悟った。
 将校が余計食べれば下士官も余計食べる。その圧迫が兵隊たちに皺寄せになり、栄養失調になり、死んでゆく。兵隊あっての指揮官なのだ。その消耗は極力ふせがなければならない。そんなわかりきったことも、長年の階級制度に馴れてきた連中にはわからなくなってきていた。若い私がそれを実行したことが、三十男のプロボクサー野崎上等兵を感激させたもののようであった。
 それから、終戦の時まで、私は自分の手で食料を獲ることをしなかった。私一人加われば、それだけ余計とれる。それがわからないではないが、食料獲得に夢中になってさもしい姿を呈することのマイナス面が、より大きいと考えた。第一小隊長の堀少尉は、私とは正反対に、芋畑を見つけたら、真先に掘りはじめる方だった。気さくなよい人で、「掘班長」(班長は下士官をいう)という渾名で親しまれていたが、五月はじめに栄養失調で亡くなられてしまった。そのことを伝え聞いて、私は、兵隊の分まで働いたことが原因していると判断した。私は特に体が頑健な方ではない。第二乙種の合格であり、盛岡では保護兵の中にまじっていた。兵隊と同じような労働をした上で、指揮までするとなると体がもたないと思った。それが堀少尉の死で証明されたような気がし、足もとに果物がころがってきても兵隊を呼んで拾わせるほど、潔癖にそれを拒んだ。
 日に二回の食事に、親指大のさつまいもを三本ぐらいしか与えられないでも、私はひもじさを訴えたり、顔に出したりしなかった。上の者がそういう苦痛を表に出せば、下には何倍かになって響いてゆく。それは空腹感を増大させるだけで、何の益もないことであった。それで私の小隊では飢えを訴えたりする者は誰もなかった。野崎上等兵の言葉ではないが、兵隊達は掘った芋を全部出すことをしなかったろうから、私より余計食べていることは間違いなかった。それでも足りないのだが、しかし自分達より少なく食べている小隊長が平気な顔でいるので、そういう不満を口にすることができなかったのだろう。
 空腹感は食べた後で、一層切実に襲った。忘れていたものが呼び醒されるのだ。そんな時、私は一人離れてごろりと横になり「武士は食わねど高楊枝」という詞を思い、またつぶやくのであったが、そのつぶやきを一体何度くりかえしたことであったろうか。
 (補記)私にこのような態度をとらせたのは、二つの理由があった。一つは初年兵から候補生時代にかけて、がつがつと、さもしい姿をさらし過ぎ、もうこれ以上餓鬼の形相を呈したくなかったこと。もう一つは中隊長の落合秀正中尉の立派な態度であった。私より一つ年下の落合中尉は、できた人物で、地位を利用してむさぼるようなことはなかった。彼のできることを私ができない筈はないと、若造の上官に張りあう気持も強かったのは事実である。