泥棒修行

 だいぶカッコイイ話をつづけたので、この辺でまるっきり反対の話をして、一息入れることにしよう。
 昭和十八年十一月三十日、盛岡工兵隊に入隊する前日の夜のことである。指定された旅館に泊っていると、一本松という変った姓の伍長がやってきた。隊から派遣されて来たのだったろうが、ぶらりと遊びに来たという格好で我々の部屋に入ってきた。たいへんさばけた人で、談笑のうちに、われわれに入隊以後の心得のようなことを説き聞かせていった。
 彼は特に「員数をそろえる」「員数つける」ということは、どういうことでどういう意義をもつかということを、詳細に話した。地方人の感覚からは、泥棒をすることになり、それはよくないことになるが、軍隊では違う。自分のものが無くなったからといって、すぐ班長(下士官)の所へ報告にくるが、そうなると表沙汰になる。本人の成績も落ちるが、班長も迷惑する。−−だから何かが無くなったら、員数をそろえるべく、自分で努力しなければならない。インテリの諸君(この時の入隊者は全部学徒兵ばかりであった)に、こういう事をいうと反論されるかも知れないが、軍隊とはそういうところだ。明日からは頭を切りかえて欲しいというような話であった。
 この一本松伍長の話が、入隊して二、三日後にすぐ役に立った。寝台の下においてあった私の靴(編上靴(へんじょうか)といった)がなくなったからである。チフスの予防注射のために、その翌朝は初年兵だけ点呼を受けずに寝ているように言われたのをさいわい、私は便所に行くふりをして靴の員数をそろえた。見つかったらどんな事になるかとびくびくしていたが、事なく済んだ。物が無くなっても誰も騒ぎ立てたりしない。私から盗まれた人は、次に誰かの靴をシッケイしたろう。次から次へとそれが波及しても誰も知らんふりをしている。軍隊とはそういうところで、員数をそろえるとはそういう意味なのかということを、はじめて実感として味わった。
 動作のにぶい私は、それでも員数をそろえる前に、古兵や班長に見つかり、殴られたり油をしぼられたりすることが度々あった。郷里の近い上等兵で、姉の嫁いだ家を知っているのがいて、時々かばってくれたが、とにかく泥棒行為は私の得意わざではなかった。
 フィリピンに行く途中、江尻丸で遭難し、無一物になったことは前に記したが、二度目のアラビア丸、三度目の妙義の遭難のとき、いくらか装具の員数をそろえることができた。はじめて遭難した連中は、動転して、装具を置きざりにして出てしまう。経験者である吾々は、すこしばかり落付いていて、そういう所有権を放棄したものを、拾い集めた。火事場泥棒である。中には軍刀を三本も拾ってきた候補生もいて、さすがにみんなのひんしゅくを買ったが、こうなると員数以上の行為である。私はせいぜい水筒、図嚢といった必要欠くべからざる物だけにした。死がそこまで近づいている段階で、慾を出しても仕様がないからである。
 三度の遭難ののち、フィリピン駐留が決ったわれわれ三十名ほどの候補生は、十九年十一月末頃、マッキンレーというマニラのすぐ南の地に送られた。ここは在比米軍の司令部のあったところで、その施設を利用してレイテ行きの部隊が集結していた。われわれはレイテ行き部隊に加わるのでなく、その移動を援助するのだという噂と、いやレイテ行きだという説とがあったが、果してどちらであったか。レイテ戦はもはや終局的段階に入っている頃であった。一週間ほどそこにいたが、格別の仕事もなく終った。輸送船がやられたため、レイテ行きは中止になったということであった。
 その一週間の間に、藤井という候補生から、泥棒集団の仲間入りをするよう誘われた。砂糖、かんづめなど珍らしい食品を与えておいて、こういうものが一ぱい手に入るが、ほんの一寸手だすけしてもらえないかという誘いであった。秋田児出身のこの男は、この道にかけてのつわものであることが、おいおいわかってきた。その集団に入った私の仕事は見張りをするとか、咳ばらいをしたり大声を出したりして巡視者の注意をそらすといった軽いものであったが、それから二カ月半余は藤井一家の末席にいて、私も若干の役割を果すようになっていた。
 手筈は藤井親分が整えて、われわれ五人ほどの手下が仕事を分担した。盗む行為は親分自身がやることが多いので、気は楽であった。マッキンレーからトンコマンガへ、それからバギオへと北上して行ったが、吾々の泥棒行為は巧妙に続けられていった。
 (補記)マッキンレーには、地下壕が縦横につくられていた。だがこれらはすべて米軍の造ったもので、日本軍が新しく堀ったものはなかった。どこに行ってもその調子で、三年間一体何をしていたのだろうと、あきれたり腹をたてたりした。

2

 三十年近く経った今になって、藤井候補生にあの時もー杯くわされたなと、はじめて気付くことがある。藤井は敵(といっても米兵のことでなく、かっぱらいの対象である日本兵の集団や現地人)を欺くにも妙を得ていたが、それ以上に味方を言いくるめることもうまかった。私を含めて五、六名いたであろう藤井の配下の者(主として東北出身の候補生たち)は、彼の言うことは一々信じて少しも疑うことがなかった。彼が口惜しそうに物を言う時われわれも口惜しがり、残念そうにする時、われわれも又残念がった。
 トンコマンガで、われわれは現地の畑から、木芋(カモテカホイ。カモテは芋、カホイは木の意)を
大量にかっぱらったことがあった。この芋は数年がかりで苗から育てるもので、甘藷などより遥かに良質の澱粉を含有する。人参や牛芳の形をした根が、そのまま芋になっていて、焼いて食べても蒸して食べてもその緻密な白味は非常においしかった。だから三カ月位で収穫できるサツマイモなどより住民も大変大事にする食物である。
 その木芋の畑を、藤井が見つけて来て、今日の夕方演習が終ったら取りにゆくというので、われわれは彼の指令に従った。そして一人で四、五本ずつ抜き取った頃、現地人に見つかり、大声で怒鳴られた。われわれはほうほうの態で逃げ帰り、宿舎に着く前にそれを薮の中にまとめて隠した。区隊長や班長に見付かるとうるさいから隠しておいて明日処分しようという藤井の言葉に従ったのである。
 次の日、藤井は、いかにも残念だという態度を示しながら、私に言った。「昨日の木芋を全部野豚にやられてしまった。あすこではあぶないと思って、場所を移しておいたんだが、今朝行ってみると、一本残らず食い荒していやがった、畜生め!」と舌打ちをした。今日は木芋が食べられると期待していた私の失望は大きかったが、相手が野豚では何とも致し方がない。未練がましく私は、昨日隠しておいた場所に行ってみたりしたが、あきらめるよりほかなかった。
 それから一週間程して、また藤井はいかにも申訳ないといった口調で言った。「班長から、俺達に分けて食うよう、米を二升ばかり貰ったが、ご飯にしてから分けようとして炊さんしているうち、うっかり真っ黒に焦がしてしまってネ。本当にみんなに申訳ないことをした」と自分の迂潤さを何度も強調して私に詫びるのであった。私だけでなく、棒組の一人一人に藤井はそういう弁解をしたものと思われた。
 助教の班長(軍曹)は、秋田児の農家出身で、同じ秋田出身の藤井や大門には目をかけていたし、われわれにも東北出身だということで、他の地方出身の者より親しみを示した。だから藤井を取り巻いているわれわれに一食ぐらい飽食させてやろうと、二升位の米をくれたのであったろう。その事を私は聞かされていなかったので、藤井の釈明を聞いて、そんな事があったのかとはじめて知った事であった。その時も、如何にも残念で申訳ないという藤井の言葉が真に迫っていて、毛程も疑うことがなかった。
 だが今になって、私はあの時藤井に一杯くわされたのだなと思い、彼の演技のうまさに感嘆する。木芋の犯人も野豚ではなく、藤井自身であったのだろう。夜中に起きて行って場所を換えたのも、野豚を恐れてではなく、同僚のわれわれから隠すのが目的だったのだろうと思う。班長の米の場合にしても、二升も一度にたいたり、それが黒焦げになるまでうっかりしているような藤井ではなかった。頭から我々に分ける気がなかったのだ。分配する気があったら、米のうち分けるはずで、ご飯にしてから分配しようと思ったなどということは、作り話に過ぎなかったと思われる。
 収穫がふんだんにある時だけ、分け前がわれわれのところにも流れてきた。藤井は自分一人で処分できる時は一人で処分し、少し余る時は同県人の大門に分け、それでも余分がでると、はじめてわれわれのところにも流して寄越したのであったろうと思う。バギオに移ってから大門がマラリヤで入院し、藤井はしばしば一人で見舞いにでかけた。そしてその都度彼は配給の食べ物などをわれわれから集めて行ったが、何分の一、本人に届いただろうかと今になっては疑念を抱かざるを得ない。
 二十年の一月三十一日、盟兵団に転属になった藤井達は、旭兵団転属のわれわれとキャンプ3まで行動を共にした。そして途中一泊した際藤井は、例の嗅覚を働かせて、路傍の部隊の 糧秣のある所に近づいた。番兵に誰何されると、「見廻りに来た藤井見習士官だ。異状はないか」といって切り抜け、なお奥に進んで行ったという。もう少しだったのに、本当の見廻りの将校が来たので、あわてて帰って来たと話していた。見習士官になったため、それまでのようにこそこそ物に近づくことをせず、表門から堂々と入ってゆく方式に切り換えたらしかった。
 キャンプ3で藤井達に別れ、更にそれまでのリーダーの高橋候補生(司令部づき)にも別れ、一行のリーダーになった時、私は藤井のような糧食集めの天才が傍にいなくなったことを腕をもがれたように残念に思った。前線まで一週間の行程があるのに、与えられた米は一日分くらい。それではどうにもならない。藤井ならこんなとき才覚と嗅覚を働かして危機を救ってくれるだろうにと、今更ながら藤井に頼ってやってきた自分を情なく思った。
 そして今や頼るものは自分しかないと思った時、私なりの大胆不敵な方法で食料を手に入れたが、それについては「運命の予告」 のところで既に記した。(藤井はその後の消息を全然聞かないことから判断して、多分戦死したであろうと推定される。)