敵中の数日間

 この文は「工兵第二十三連隊記録」という小さな本に、私が生還者の手記の一つとして書いたものである。

 昭和二十四年四月中旬、ベンゲット道キャンプ3附近で、日本軍が敵陣に攻撃をしかけたことがある。敵をキャンプ2あたりまで後退させるのが目的であったらしいが、当時の戦力の違いからみて、無謀な計画であったように思う。
 それはともかく、その反攻において、もっとも敵陣深く攻め進んだのは、あるいはわたくしの小隊であったかも知れない。斬込隊としては、もっと奥まで進んだのもあろうが、地域の占領という点を考えると、わたくしの小隊はもっともさきに進んだ方の一つであったろうと思う。そうはいっても、その時の占拠はわずか四分の三日くらいで、一昼夜ともたなかったのであるから、自慢になる話ではない。したがって戦史や戦記のようなものに書きとどめるに価いしないものだが、落合秀正氏(戦場での中隊長。ただしこの反攻当時は別)からなにか書くようにいわれると、いまでも命令されているような気がして書かないわけにもいかなくなる。

 このときの進攻のため臨時編成された川越中隊は本部(大塚准尉以下を含む)と稲泉小隊とわたくし(学徒出身の見習士官)の小隊とから成っていた。わたくしの小隊(総員十一名。それに前日、斬込みを終えて帰った上村伍長と野添上等兵が途中から加わって十三名)は、前進陣地として一軒家G附近の占拠を命ぜられ、稲泉小隊は高地の中腹部D、川越中隊本部は高地Cを占拠することになっていた。
 連隊本部Aのあった山を出発したのが四月十一日、道のない谷あいの絶壁を首直ぐに降って高地の南麓Bに到着、日暮を待って敵陣に擲弾筒をうちこみ、難なく占領を了えた。わたくしの小隊が一軒家附近(この東南五〇メートルくらいのところにも敵の陣地があったが)まで進んでも敵の抵抗はまったくなかった。
 わたくしは小隊を三班にわけて第一班(緒方軍曹以下四名)と第二班(上村伍長以下四名)に、なお前方側面の偵察を命じ、残りの第三班に敵の造った陣地E(これをそのままわれわれの陣地として使うつもりであった)の拡充整備をさせ、わたくし自身は第二班といっしょに東南の方の偵察に向った。そしてものの四、五十メートル進んだところで壕を掘る音と敵のひそひそ話を聞きつけ、てっきりそのあたりには新しい陣地を作って翌日反撃する準備をしているものと判断した。とすれば四〜五名で襲ってもうまくゆくはずはないから、早朝全員で黎明攻撃をしようと考えて引返した。一軒家方面を偵察した緒方班は手榴弾多数と食料煙草などを押収してきた。高地の頂上には赤々とかがり火がともされ、連隊本部へ占領成功の合図がなされたのは夜半ごろであったろうか。それを見たわれわれはいささか戦勝気分に酔い、ともすれば当面する事態を忘れてしまいそうであった。
 翌朝予定どおり左前面の敵に総攻撃をかけた。しかしわたくしはいくつかの大きな誤算をしていることにすぐ気づいた。一つはフィリピンには黎明とか薄暮とかは無いに等しいということである。日が昇れば明るくなり、日が暮れれば暗くなり、うす暗がりの時間はきわめて短かい。机上の戦術だけが頭にあって、この事実を忘れていた。そんなわけで、目の前の敵陣F(?)に近づいたときには、もう明るくなってしまっていた。
 それからもう一つの大きな誤算は、敵が左前方に新しい陣地を構築しているであろうという判断が間違っていたことである。幾つかの蛸つぼが掘られていて、そこの米兵が歯向ってくるであろうという予測が全然狂って、一人の米兵の姿も見えない。わずかに真新しく作られた掩蔽壕一つFを見つけたにすぎなかった。それからこれはわたくしだけの誤算でなく友軍全部の誤算だったらしいのだが、この高地と並んでもう一つ別の峰Hがすぐ南側にあり、これが未占領のまま残されていたのである。
 掩蔽壕を見つけて手榴弾二発をたたきこむと同時に、われわれはその峰Hから機関銃の一斉射撃を受けた。最初は中隊本部が間違って射ってきたのかと思ったほどである。だがよく見ると別の峰である。その高いところから、われわれの後ろを狙ってバリバリ撃ってくる。進撃に際してわたくしは「左前面の敵を前の谷底に追い落して皆殺しにする。そしたらまたここに戻る。だから円匙(えんび)など余計な装具は持たなくともよい。水筒は忘れないで持て。帰りに水を汲んで帰る」と指示したが、前には敵の姿がなく、左うしろの高いところにいるのだ。

2

 すっかり予定が狂ってしまった。「よし、昨夜の陣地に戻れ」と指令して後退し、ようやく稜線のうしろにきたが、しかし陣地に戻るにはこの稜線をふたたび越さなければならない。越そうとして頭をもたげるとバリバリ撃ってくる。それがかなり正確で、頭のすぐ前に落ちる弾丸でとばされる砂が二の腕にささって痛い。何回か試みたが駄目である。あとで考えると、一度大きく一軒家上方まで後退すると隠蔽して行ける路があったのだが、そのときは思いつかなかった。
 仕方なくその附近に二手にわかれて時機を待つことにする。緒方軍曹以下の半数は峰の方の敵に対峙J、上村伍長以下の半数はベンゲット道(一軒家の下を通っている)から攻め上ってくるかも知れない敵にそなえて、一軒家の南上方にある森Iに位置させた。しかし装具を置かせたため壕が掘れない。草や薮に身をかくして迎えうつしかない。
 機銃射撃が止むと今度は迫撃砲の一斉射撃がはじまった。何カ所からか発射される弾丸が、中隊本部のあたりや稲泉小隊のいるあたり、昨夜の陣地あたりに パシャッパシャッというような音をたててうちこまれる。こちらの武器といえば小銃しかない。まったく圧倒されてしまう。オモチャでもよいから、なにか大きな連続音をだすものが欲しいと思う。暁方の意気込みはどこへやら、意気消沈してしまう。
 かくて何時聞かの銃砲撃がぴたりと止み、米兵が峯から攻め降りてきたのは昼過ぎぐらいだったろうか。「敵が降りてきます。撃っていいですか」と緒方軍曹がいう。このとき撃たせればよかったのに、わたくしは「必ず倒せると思うところまで引き寄せて撃て」と制止した。しかし敵とても命知らずの馬鹿ではない。あぶないところまできたらそう自分を暴露するはずがない。やはり一歩手前のところで食い止めるべきであった。そうしたら少しは長くもちこたえられただろう。小銃弾も一人三十発ぐらいで、あとの補給の見込みがない、それで何日戦わなければならぬかわからないのだからと考えたが、しかし撃つべき時に撃たないと機会が去ってしまう。近接してからの米兵は巧妙に身を隠して、射撃の目標にならなかったのである。
 目の前まできた敵は手榴弾で攻撃してきた。それがかなり正確でわたくしのすぐ足もとにも一発おちた。わたくしは高い方にいるのだから、理にかなった投げ方である。気づいた瞬間とっさにそれの上を飛び越え低い方に伏せると同時に爆発、「この野郎」と思ったわたくしが自分の手樽弾を手にして立ち上ったが敵の姿が見えない。このときの襲撃で緒方軍曹が胸に破片を受けて負傷したことをあとで知った。
 またわたくしの小隊がこのように前に出過ぎて陣地に戻れなかったため、稲泉小隊が第一線のような格好になり全滅した。中隊本部は南うしろの森の中に退避したため、そう大きな損害を被らなかったことなどがあとで判明した。わたくしの小隊も陣地に戻っていたら全滅していただろう。しかし稲泉小隊は全滅を免れたかも知れない。こうなったのも運命というものかも知れないが、稲泉老少尉に対して済まないことをしたような気持が今でもするのである。
 いくらの時間もかけず敵は峯Cまで占領してしまったらしい。自動小銃の音が登ってゆくのをわれわれは空しく聞いていた。そして弾丸の音がしなくなった夕方近くになってわたくしは単身偵察にでかけた。上村伍長らのいた森をでて北へゆくと、すぐ一軒家から登ってくる小径がある。そこに電話線が二本張られているので軍刀でまずそれを切断した。それから上へ登ってゆくと昨夜の陣地Eのところへでる。そこを木のかげからのぞくと、でんと腰を下した米兵がいる。五メートルと離れていない。こいつめと思って拳銃を向けたが、この一人を殺してもどうなるものでもないと思って中止する。
 それから一軒家の方にひきかえす。道に空缶など下げたりしてあるので、下ばかり気にしてゆくと一軒家の裏庭の端にでる。ふと前を見ると軒下の右と左に米兵の歩哨が二人いて、自動小銃を手にしてこちらを見ている。二人とも十メートル以内の距離にいるのに射ってこない。銃口を斜め下にさげて、ぼうとわたくしの方を見ている。「射たないな」と判断したわたくしは、しばらく二人をぼうと見返して、それから空模様でも見るような風をしておもむろに後ろを向き、ゆっくり歩きだす。(このときの歩晰にはいまでも会ってなぜ射たなかったか問いただしたい気持がする。)遮蔽したところまできて一気に駈けだして森Iにかえる。帰りつくとほっとして疲れがでてきた。昨夜は一睡もしていないし、朝からなにも食べていない。膝をかかえたままついうとうとする。
 森のすぐうしろの道を米兵が煙草に火をつけたりして通る。一メートルくらいうしろを。だが頭がもうろうとしてどういう処置をとったらよいかわからない。こういうとき頼りになるのが緒方軍曹である。経験も判断もはるかにわたくしの上をゆく。なんとか軍曹を傍におきたいと思って、しのんで行く。傍にいって呼ぶと、敵がすぐ前にいるから動けませんと小声で答える。また森に戻って対策を考える前についうとうとと眠ってしまった。いまにして思えば一つの森の中に六人も固まっていず、一人ずつばらばらに散開させておけば損害が少なくて済んだのだ。
 ちょっとまどろむつもりが暁方まで眠ってしまっていた。けはいで目をさますと、森の中に米兵が五〜六名入ってきていた。わたくしが傍の鉄帽をとってかぶると、かれらはその昔をききつけて木にぴたりとくっついて動かない。二〜三メートルの距離にいてまだ撃ってこないところをみると、さては捕虜にするつもりだなと思った。ぐるり取りまかれているのだろう。捕虜になることだけはなんとしても避けなければならない。わたくしは傍の野添上等兵に耳うちした。「敵に包囲されている。これから突破するからつぎつぎに起して、おれのあとにつづけ。集合地は下の谷L」といって、わたくしは自分のすぐうしろの一つしかない薮の切れ目から抜けでた。
 案に相違して森の後ろには敵の姿はなかった。しかしわたくしが抜けでて間もなく、バリバリ射たれたところをみると、どこかにひそんでいたらしい。わたくしが射たれると同時に森の中の連中も射たれた。そして五人全部が戦死した。斬込隊として勇敢な働きをした上村伍長と野添上等兵もこのとき死んだ。この攻撃での小隊の損害六名のうち五名までが、この森で死んだのである。敵が一斉射撃を開始したのはフィリピンの夜が明けかける瞬間でもあった。視界がきくこの時刻まで連中は待っていたらしい。わたくしも、もう数十秒遅かったら戦死者の仲間入りをしていたであろう。
 わたくしはこの附近になお数日間いた。昼は草むらの中にひそんでいたり、夜だけ谷Lからでてきたりして一人でも部下を掌握しようと務めた。しかしみな息を殺してひそんでいるので、掌握のしようがない。右も左も前も後も敵である。敵の方も大きな声をだしたりはしない。だから敵か味方かの判断もむずかしい。それに敵の警戒もますます厳重になり、道に針金を張ったりして、それに触れると夜でも撃ってくるようになった。
 部下の掌握をあきらめ、峻嶮な谷を登って友軍の占領地域内に辿りついたのは、攻撃の日からかぞえて八日目であった。水を飲むだけで一物も口にしなくなって六日と半日ほど経っていたのである。

追記

米軍の沖縄侵攻が進むにつれて、方面軍司令部はそれまでのような消極戦法ばかりをつづけるわけにもゆかなくなり、漸く反撃に転ずることになった。「捷号陸軍作戦(2)ルソン決戦」には、その時の旭兵団の状況を次の如く記している。
  旭兵団においては、ベンゲット道の林(歩七一)聯隊(注=二木大佐マラリヤでたおれ、既述の林安男大佐後任聯隊長となる)は十日展開し十一日夜、反撃に転じた。聯隊が 受けた任務は「当面の敵をリンガエン湾に圧倒すべし」というものであった。
 また小川哲郎氏の「北部ルソン持久戦」には、次の如く記載している。
 イリサソ戦線が急迫していない四日の始め頃、旭兵団は四月十二日に始まって、11号線のキャムプ3附近で対略している米軍(第三三師第一三六歩兵連隊)に対し包囲攻撃を行う計画を立て、将兵は今までの防禦一方の戦斗から、始めて攻撃に出る轢会を張り切って待っていたのでした。
 四月十一日の夜、先ず工兵第23連隊主力を基幹とする攻撃隊が、敵占領地域に対し正面攻撃をかけ、同時に同連隊の少数の挺身隊が敵の後方に迂回して、キャンプ2附近でその背後を遮断しました。十二日朝からは敵の反攻が始まり苦戦となりましたが約一粁ばかり進出した地域は確保されていました。
 私の記憶では、その時の命令は「当面の戦をキャンプ2まで後退させ、やがてリンガエソ方面に圧倒すべし」というものであったように思う。キャンプ3からキャンプ2までは四キロ位の距離だが、それでも彼我の戦力差を考える時、無謀な作戦に思えた。七一歩兵連隊では、この命令を連隊長の気が狂ったとして無視し、十二日の反撃を行わなかったことが吉原耕作氏(七一連隊の司令部づき通信大尉)や落合秀正氏の話などからわかった。命令をまともに受け取って反攻に出たのが、武器をもたない工兵隊だけだったから、勝てる道理はなかった。小川氏は進撃地域が相当期間確保されていたように記しているが、これもせいぜい一日位で、あとは敵の中に身をひそめていた程度のことに過ぎなかったと思う。