一粒の木の実

 谷間にひそんで、部下の掌握が困難になったと悟ったとき、私は非常なさびしさに襲われた。そして自からの用兵の拙さに対する悔いが強く湧き起って、自決してしまおうと思った。谷川のほとりには、大きな岩がごろごろしていて、身をかくすのに都合がよかった。三、四メートルも奥まで入りこめる巨岩の下で、私はピストルをこめかみにあて、引き金に手をかけた。 銃口がひやりと冷たかった。その冷たさが、もう一度現実を思いかえさせた。ここで自殺をしても、犬死ではないか。いずれフィリピンの土になるにしても、死ぬのは早過ぎる。死ねば楽になるだろうし、部下を散りぢりにしてしまったことへの体裁もつくろわれよう。しかしもう一度でも二度でも、困難さの極限まで、生きつづけるのが、本当のあり方ではないか。それにこの岩穴はどうか。古代人の墓場そっくりではないか。余りにあつらえ向きな死に場所であるのも気にいらなかった。
 私は銃口をはなし、スコールに濡れた体をごろりと横たえた。 − 私の戦い方について批判や中傷はあろう。だがそれらに耐えて生きつづけよう。汚名をそそぐ機会は、またあるだろう。犬死をしてはいけない。もう一度だけ部下の掌握につとめ、それが無駄だったら、単身谷川ぞいに迂回して、友軍のいる場所に戻ろう。そう決心して、岩から這い出し、一時屯ろしていたあたりに、よじ登っていった。そして漸くそこの辺に近づいたとき、敵の張りめぐらした針金にさわり、一斉射撃を受けてしまった。この分では部下の掌握は無理である。またよしんば掌握してみても、それで敵を追い散らすなどは不可能である。こうなったら単身で戻るしか手がない。またも谷底に追いまくられてしまった私は、こう考えてその晩は岩穴の中で深い眠りに落ちた。
 その谷川は、吾々が進攻して来た方向から六十度位東に寄って流れおちていた。大変な急流で所々に二丈程もあろう滝があった。下流は左岸右岸とも敵に占領されているが、上流は右岸がまだ友軍の手中にある。翌日からそこを目ざして私は登っていった。もう全然物を口にしなくなってから四日程経っていた。
 何か食べられそうなものはと思いながら行くと、枯葉にかくれて一粒の木の実があった。直径二p位、厚さ五o位の丸い実である。歯を立ててみたが物すごく硬い。この中には、きっと柔かい核があるに相違ない。胡桃を割る要領で、私は石ころで割ろうとしたが中々割れない。それで思い切り強く叩いたら、木の実は飛んでしまった。枯葉をかきわけて、いくら探しても見付からない。私は、人よりも忘れっぽい方であるから、これまで度々物を失くした。そしてその都度惜しかったなあという思いをする。だがこの時の一粒の木の実ほど、惜しい思いをしたものはないように思う。その谷間は不毛の谷間で、ほかに食べられそうなものは、何もなかった。もう何日かかるかわからない行程の中で、私は唯一の食料を失ってしまったのだ。
 巨岩からなる滝は、私の行く手をはぱんだ。夜のくらい時では、どうしても登ることができない。かといって、昼では敵に姿を暴露してしまう。それで私は、滝の下まで進んではスコールの来るのを待ち、雨脚のヴェールを利用して岩を登った。距離にして二、三qのところであるから、まっすぐ行けば大したことではないのだが、そういった進み方だったので、友軍の占領地まで着くのに、二、三日かかってしまった。
 私はいま、敵中に部下を置き去りにして逃げて帰るのだという思いが胸を噛んだ。うしろ髪を引かれる思いである。と同時に、いや、やるだけのことをやったんだ。そのままあそこに踏みとどまっていても、敵に撃たれなければ餓死してしまうだろう。こうするのも止むを得ないのだ。中隊本部だって、我々の救出に全然来ないじゃないか。馬鹿正直に自分だけ戦わなければならない理由は、どこにもないのだ……という思いが、交互に胸の中を去来した。
 時は丁度フィリピンの雨期に当っていた。一日のうち、一度か二度は、きまってスコールがおそってきた。これが私の脱出を助けた。二丈ほどもある滝をよじのぼるには、かなりの暇がかかる。その間、敵に姿を暴露してしまう。だから、日中晴天の場合は行動できない。かといって夜は、くらやみだから手がかりが見つからない。垂直の岩をよじ登るのだから、足を踏みはずして大怪我をしてしまうだろう。
 それで私は、スコールの襲来時を利用して登ったわけだ。両脚は数米前の視野をもさえぎってしまう。だが手先は明るい。注意深く岩に手をかけては、体から滝のように流れる雨水をふりはらいふりはらい、徐々に体を進めた。
 時には岩壁の途中でスコールが止んでしまうことがあった。そうなると絶体絶命、運を天にまかすしかない。岩にへばりついて体を小さくし、祈る思いで一歩また一歩と進んだ。
 時には何時間待っても、スコールのやって来ない日もあった。そんな時は、黎明や薄暮を利用して登ろうしたが、うまくゆかなかった。前にも記したように、南方の朝は日が登ると同時に明け、日暮と同時に暗くなる。うす暗がりの時間が極めて短かい。 − 暗やみに登って、岩から落ちて死んだのでは、これこそ犬死であるから、スコールの襲来まで何時間も待つことにした。
 こんな風にして、数時間で行ける筈のところを何日間も費やして、ようやっと友軍の占領地にたどりついた。谷川を横切っている道 − この左手をどんどん行けば、進攻前に我々がいた陣地がある。ついたぞという思いが、急に体の倦怠感を誘った。
 と丁度その時である。黒い影が動いた。はっとして見ると日本兵である。ここで何をしているのかと聞くと、芋ほりにきた帰りだという。イモという言葉を聞いたとたん、忘れていた飢餓が急に首をもたげた。私は今敵中から逃れて来たこと、何も食べなくなってからもう六日半日も経っていることを説明して、その兵隊に少しでよいから芋をめぐんでくれるよう頼んだ。その兵隊は黙って雑嚢から小さなサツマイモ二本を出して、私にくれた。
 私は泥を服でおしぬぐって、皮ごとそれを食べた。一口ずつその芋が口の中で、とけてしまうまで噛んでたべた。がつがつ呑みくだしてしまうのは勿体なかった。親指よりはすこし太い二本のサツマイモ、これが六日半日目にありついた食物であった。この時のイモの甘さ、これも生涯忘れられないものである。
 (連隊本部のあった所に行ってみると、連隊長以下イリサンの方に廻ったということで、衛生兵の首藤君だけが病人と一緒に残っていた。手兵を率いて諸士のあとにつづくであろう、と豪語していた連隊長が、部下を置き去りにして逃げたのだと川越中尉があとでたいへん怒っていたのも無理はないと思う。たどりついたとき、首藤君はあまい芋粥を作って馳走してくれた。つまらない食物という意識しか持てなかった芋粥が、すばらしいありがたい食物だったのだと思い直したのもこの時である。)