遺書のような手紙

 つい先日、妻が亡母の箪笥の中から、一通の手紙を探し出した。小型の封筒に入って、差出人のところに、千葉 県の義兄の名が書いてある。中味は、私が南方に出発する際、松戸から出した遺書のような手紙で、義兄の名を借りて出したものとわかった。七銭切手が貼ってあり、スタンプの日付は、昭和十九年九月二十五日になっている。
 復員した当座は、こういうものがあったら、すべて破り捨てようと思い、家中探したものだが、この手紙は八年前死んだ母が大事に隠して蔵っておいたらしい。今になってみると、これも私の歩みの一つの記念品のように思え、時の移り変りにつれての、心情の移り変りに、感慨を禁じえないものがある。全文を紹介してみよう。

拝啓
 先日の帰省に際し母上様の此上なき御壮健なる御姿を拝し慶び此上なき次第であります。鏡の如く磨かれた家の内外は我家ながらも母上様の作られた立派な芸術品であります。それは又楽しき憩ひの場所であり、憧れの瞑想境であります。母上様は到らぬ私の為に色々と心を尽してくれました。そして私は何らの孝行も尽すことが出来ませんでした。そしてそのまま第一線の地に向って出発して行きます。母上様が此の手紙をおよみになる頃は、南の大洋を進みつつあることでせう。
先般の帰省も実はひそかなる暇乞ひでありました。
近く決戦場たらむ南の島(多分ジャワならむ)に赴く今日、生きて再び相まみゆることもなしと覚悟を固め居ります。
墓参も出来ず横山の叔父さんはじめ親戚の方々にお目にかかることもなく帰らねばならなかったことはかへすがえすも残念でたまりません。出来るなら実家にもお暇乞ひをした上で出発したかったが、これも致方ありません。然し母上様の御元気な姿を拝し森先生と話し合ふ機会を得ましたことだけでも身に余る恩典でありました。そして又長沢さん一家の御親切に対しましては益々感謝の外なく、奥さんの御饗遇には母上様より代ってお礼下され度くお願します。その他岩井さん佐藤さんはじめ隣組の方々にもよろしくお伝へ下され度くお願ひ申し上げます。
 ジャワのバンドンに於て少しく教育を受け、すぐに第一線にふりわけられむとの噂なれど判然たることは解りません。
 尚例の雨外被は横手の戦友がもって居てくれました。心配かけてすみませんでした。
言ひ度き事は外に山々ありますが、これ位でやめます。
尚この手紙に書かれたることは、みだりに口外下さらぬ様、最初は上司の意図通り無言のまゝ出発せんと思ひしも、一言母上様の御気持を安定させん為、認めた次第です。兄も時を同じうして出帥するは奇しき因縁であります。
実家の方には母上様の方から適当にお知らせ下され度くお願申し上げます。くれぐも口外なさらぬ様。最後に母上様の御健康を祈って止みません。
 和魂も猛しき魂もしづまりて出で征く我や生ける験あり
                                           敬具
   九月十四日出発の日
 母上様


 とあり、どこにも私の名は書いていない。途中で開封されても、誰の手紙かわからぬ様、気をくばったものと見える。なお書いたのが、十四日でスタンプが二十五日であるから、投函するのに十日ほどかかったことになる。局名はうすれて見えないが、船に乗るまえ、どこかで投函したものであろう。
 ジャワのバンドンなどという地名が見えるが、噂はあてにならないものである。我々の目的地はマレーのシンガポール(昭南)であることが、乗船してから暫らくしてわかったことであった。
 なお文中に出てくる兄は、沖縄戦に参加し、魚雷艇に乗って敵の軍艦に体当りし、戦死した。関東軍から選抜され、士官学校に来て助教をしていた。私が大学に通っている頃、兄のくれた葉書が、書物の栞になっているのを、先日見つけた。