敵前逃亡

 ここにきて、私はたいへん嫌な思い出を語らなければならない。それはF一等兵に関する話である。彼に敵前逃亡の汚名をきせ、とうとう小隊に復帰することを認めなかった私の処置は、今から考えるとむごすぎた仕打ちであったと思う。
 前に記したキャンプ3の戦闘の際、Fは「敵襲!!」と言って、私の傍を走りぬけ、行方がわからなくなってしまった。目の前に迫ってきた敵兵を見てどうてんしたものであろうが、私の掌握できる範囲内に身を隠せば、そう咎める気はなかった。戦場を捨てて逃げ去ったわけではないが、しかしどこに隠れたかわからないのでは、一種の敵前逃亡ではないか。
 Fはわれわれより二、三日余計敵中にいて引きあげてきた。その時私は彼の行為をひどく責めた。私自身、作戦の拙さなどで、頭にきている時でもあった。
 「敵前逃亡をした奴は、即座にぶった切ってもよいんだぞ。」 語気するどく私はFにつめよった。外の兵隊の見せしめにするためにも、そういう必要があった。最後には許そうという気でいたが、しかし私はきびしい表情をかえなかった。
 「これからは、ああいう行為は絶対に許さんぞ。いいか。」
 「はい。」
と答えたFは、私のそばを離れたが、そのまま何処に行ってしまったのか小隊には戻らなかった。その事がますます私の心証を害した。
 その後、二、三カ月もの間、Fはわれわれとつかず離れず行動していたらしい。キャンプ3を退却してだいぶ経ってからも「Fに会った」という報告を聞いた。そして私は、その時でも「今度会ったら、隊に戻るように言え」というべきであったが、口をついて出る言葉は反対で、「あんな奴はほうっておけ」 という冷たいものであった。
 Fは頭の働きも早く行動もてきばきしていて、最も勇敢そうに見える兵隊であった。キャンプ3以前は、いちばん信頼していただけに失望も大きかった。だからなんとかもとのFに戻ってもらいたいという願いをこめて、きびしく対したのであったが、またもやふっと姿を消したので、私の方も依怙地になっていた。考えてみるとFは敵中にわれわれよりも永くとどまっていたのだから、決して敵前逃亡などではなかったのだ。Fは結局その後行き倒れになったものと思われるが、かわいそうな事をしたという思いが、未だに私の胸中を去来する。
 キャンプ3の進攻で、Kという少尉は、熱発をよそおって、斬込み隊に加わらなかった。新しく編成された綾部中隊の小隊長であったが、にせの熱発だったようだ。こちらの方はどうやら本当の戦闘拒否であり、敵前逃亡といってよいものであったようである。
 こういうのにくらべたら、Fの行為はそんなに責められるほどの事はなかったのだ。