負傷した軍刀・身代り

 何カ月も弾丸の中をくぐっても私は体に傷一つ負わなかった。背嚢にも雑嚢にもタマや破片の跡がいくつもの穴を作っていた。体にあたらないのが不思議であった。キャンプ3では、左の股に当るはずの弾丸を軍刀が防いでくれた。
 前に記したキャンプ3の進攻の何日か前のことである。私は部隊長から至急落合隊に連結に行くよう命ぜられた。連隊本部は山の上にあり、落合隊は谷あいのベンゲット道に川をはさんで敵と対峙していた。一刻を争う命令だから、ここをまっすぐ降りてゆけという。峰伝いに小径があるが、しかし途中まで敵が占領してしまっている。径のない右手の谷にいったん降りて、谷ぞいにゆけば着くはずだという。それはそうに違いないが、標高で七、八百メートルも違い、一気に谷底につながる斜面を夜中に行けというのはなんと無茶なことか。しかも月のない暗闇の晩である。私は上村伍長と野添上等兵を伴って出かけた。道のない斜面にかかると松葉が散っていて、やたら滑った。進むにつれて傾斜が急になり、ところどころ崖になっている。何べんかころんでは起き、ころんでは起きしているうち、とうとう五メートルほどどっと落ちてしまった。いけない。これでは明かるいときでも難かしい。私はこのコースを断念し、キャンプ4から遠回りすることにした。戻って副官にそのコースでは却って時間がかかるといって訴えると不承不承諒解してくれた。まっすぐキャンプ4から回っていれば、その晩のうちに着いているはずなのに近道しようとして道草をくったため、落合隊の近くに行った時は明かるくなっていた。道が曲がっている岩鼻の蔭にかくれて見ると、稜線上に敵の胸の上からの姿がはっきり見える。そこまでの距離は百メ−トルか二百メートルか。落合隊まではあと四、五十メートルであろう。ここまで吾々が近づいたことを敵さんも気付かないらしい。
 よし、敵の気付かないうち、一気に落合陣地まで突っ走ろう。右は絶壁、左は川べりの断崖であるから道路しか進みようがない。私は上村、野添の二人に言った。「敵は気付いていないふうだから、俺がここを飛び出してみる。もしも俺がやられたら、命令の内容はかくかくだから、代わって伝えろ。二人一緒には行動するな」と言って岩角から身を出し、タターッと走った。四、五メートル行ったところ、道の右傍に一抱えぐらいの太さの木がある。それが一先ずの目標であった。敵が撃ってきたら、そこに身をかくそう。− 私が飛び出すや否や、猛烈な勢いで撃ってきた。敵の目もふし穴ではなかった。出てきたら撃ってやろうと待ちかまえていたのだ。三門位の機関銃が私一人をめがけて、撃ちまくった。私はタマの中を突っ走り、木のかげに倒れるように伏せた。その直前、足をはらわれるような感じがしたが、その時に軍刀にタマが当ったものと見える。私が木のかげに身を伏せてからも、敵は絶え間なく機関銃を連射した。一人だけの人間によくもこう惜しげもなく撃つものだと思うくらい撃ち続けた。十分か十五分撃ちまくられたと思ったが、実際は四、五分だったのかも知れない。私は鉄帽を脱いで、それで地面を堀りにかかった。固くて掘れやしないのだが、何もしないではいられない感じであった。
 この時から一ヵ月位、私は軍刀がタマを受けたことに気づかないでいた。刀身のちょうど真中辺に小さな傷ができたのをいぶかって、ボロポロになった革の装具をとってみて初めてわかったことであった。鞘に小指の頭大の丸い穴があいているのだ。あ、あの時だと思い、それからはその昭和新刀に愛着を覚えるようになった。
 家からもっていったのは、六百円を投じて母が買ってくれた新刀で、かなりのものであった。しかしこれは江尻丸遭難のとき、海に沈めてしまった。そして、前線に行ってからもらったのがこの昭和新刀であった。それまではなんとなくなじめない感じでいたが、我が身に代わって負傷してからは、かけがえのない愛刀という気がしてきた。 (終戦になって、武装解除される時も、何とかしてこの刀は持って帰りたいという気持が強かった。米兵によって薪か何かのように、ポイと投げて積み重ねられる愛刀に、親友に別れる悲しみを覚え、暗涙を催したことであった。)
 話はかわるが、上村、野添の両人はこの時以来見違えるほど勇敢になった。それまでは平均的な兵隊であった。だが小隊長の私が敵に暴露しているところへ飛び出して行ってからは人がかわった。飛び出したこともさることながら、雨霰の弾丸の中で、私が無傷であったことが、彼らの勇敢さを誘い出したのではなかったかと思う。この指揮官なら命を委してもよいという気持になる時、兵隊は勇敢になる。短い期間であったが、この二人は私にとって最も頼りになる部下になった。
 それから間もなく、私の隊から二人の斬込隊を出すことになった時、私は躊躇なくこの二人を選んだ。迫撃砲陣地の破壊がその任務であった。二人は敵陣に手榴弾を投げ込み、戦利品のタバコやチョコレートをもって帰ってきた。……しかし二人に運はなかった。斬込みからの帰りに、新たに進攻してゆく吾々にばったり会ってしまったのだ。再び小隊に合流して敵陣へ逆戻りする破目になった。
 そして、それから敵中にあっての数日間も両者の働きは水際立っていた。私が先頭に立って、敵陣偵察にのそのそ歩いてゆくと、「そんな大きな姿勢でのそのそ歩いちゃ駄目です。私が先頭を行きます。」と言って制止し、這うようにして私共を導いてくれたのも上村であり、野添であった。二人ともこの地で帰らぬ人になってしまったが、本当に惜しい人物であった。

2

 キャンプ3のわが軍の陣地は、なかなか米軍の突破を許さなかった。特にこちらが強いからでなく、九〇パーセントまでは、峻険な地の利のせいであった。しかしその北方の、盟兵団(旭兵団の隷下の旅団、弘前編成)が守備する北サンフェルナンド道がもたなかった。四月二十四日、米軍は山下軍司令部のあったバギオにこの道からなだれこんだ。
 こうなると、われわれ中地区隊(旭兵団を主力とする)は敵中深く取り残された形になった。そして転進(退却)の命令がくだった。私は中地区隊の転進援護隊長を命ぜられ、三十名程の部下をもらった。転進援護隊というのは、味方が退却するのを助け守ってやる部隊である。普通なら大隊長か中隊長の任ずる役であろうが、下りに下って見習士官の私に、その役が廻ってきた。
 さいわい、米軍はわれわれの退却に気付かなかった。追撃を受けることなく、バギオ南方の尾根までたどりつくことができた。吾々の通ったあとには、全くの静寂が残った。−−しかしバギオからくる路と交錯するところで、その静寂が破られた。迫撃砲弾が一発、私の左前方に落ち、すぐ前をゆく兵の踵(かかと)をそぎ取ってしまった。敵は要所要所に一定時間をおいて弾丸をうち込んでいた。それにひっかかってしまったわけだ。私は一歩の差で負傷を免れた。
 その三叉路を左にゆけばバギオ、右に進めばアンタモック鉱山がある。数時間してわれわれは鉱山の上の松林に到着した。(フィリピンの平地に、松は生えてないが、千米位の高地になると、松林があった。)その松林で一人の落伍兵が私の前に来て言った。自分は野砲隊の金谷上等兵である。熱発で部隊に遅れてしまった。どうか一緒に連れて行ってほしい。言い終ると、煙草を一本さし出した。私はこの一本の煙草にひかれて彼の同行を許した。特別な世話はやけないが、ついてくる分にはかまわないと言った。
 その松林には、いろいろな所から集まってきた友軍が百人ほど屯ろしていた。そのなかに飯盒炊さんをした者がいて、煙を米軍の観測機に見つかってしまった。合図の煙弾が落された。さあ砲撃がはじまるぞ……。私は前から目をつけていた、一つだけある造りかけの蛸壷に入ろうとした。一つしかない蛸壷だから、隊長の私が入るのが当然だ。部下の兵隊も暗黙のうちにそれを了解していた。ところが私より先に落伍兵の金谷上等兵が入っていた。この野郎と思ったが、出ろとも言えない。私はそこから二メートル位離れた何もないところに蹲まった。
 戦車砲による猛烈な砲撃がはじまつた。土砂が飛び、木が倒れ、硝煙が立ちこめる。私の上にも径三十糎位の松の木が倒れかかってきた。枝がつっかえ棒になって怪我もしなかったが、こういう木を一発で倒してしまうのだから、かなり近くから射っているに相違ない。
 すさまじい砲撃がやんで、私は松の木の下から這い出した。密生していた松の大半が倒れて地面を覆っているが、その隙間を見ると、装具が飛び、人間の肉塊が飛び散っている。ふと傍の蛸壷を見ると、金谷が頭に破片を受けて断末魔の吐息をもらしていた。松の幹に当ったたまの破片がはねかえって、彼の頭に突きささったのだ。もし私がそこに入っていたら、彼と同じ運命をたどっていたに相違ない。彼は私の身代りだったのだ。
 忽然と現れて私の代りに死んでいった男、私の指揮下に入って一時間も経っていなかったのにと思うと哀れになり、私は彼の形見として、その軍隊手帳を終戦後まで、大事に持って歩いた。
追記
 昭和四十八年に、私が遺骨収集隊の一員としていった際、リーダーの吉富氏に特にお願いして、この松林を探してみた。しかし道路も松林も昔のままではなく、ついにつきとめることができなかった。致し方なくその近辺と思われる路上で簡単な慰霊祭だけを行った。バギオ修道院の尼さんの二人も祈りをささげてくれた。うち一人は東京から行っているテレシア・ウンノさんであり、一人は比島生れだが、日本人に容貌のよく似た尼さんであった。