地獄をつき抜けてきた男

 砲撃を受けた松林から急勾配の道路を東へ数百米くだると、アン夕モック鉱山がある。そこまでわれわれは、取るものも取りあえず降りていった。しかし転進援護がわれわれの任務だ。後方に部隊がいるかも知れないうちに、進み過ぎることはできない。
 さいわい鉱山には鉱道があって、あつらえむきの壕の役目を果してくれる。ここで一日泊って模様を見ることにしよう。今日はここで宿営すると私は部下に告げた。− しかし私の考え通りそこに宿営していたら、われわれは全滅していたかも知れない。その日の夕方までにはそこは米軍に占領されてしまったのだから。
 鉱道の入口に荷をおろして一息いれていると、西田兵長が来て言った。小隊長、米軍の状況を偵察する必要があると思う。自分はさいわい双眼鏡を持っているから偵察に行かせてください。彼は中隊長の形見だといって立派な双眼鏡をぶらさげていた。
 西田兵長たちは、出ていって間もなく、三十分もたたないうちに戻ってきた。米軍の戦車隊は四、五粁先まで迫っているという。すぐここを発たないといけんです。米兵は 百米位進むと五十米位さがるといったあんばいに慎重にやってくるが猶予ができません。それから戦車のあとを自動小銃をもった歩兵がへっぴり腰でついてきよるとです。おかしかですたいと、彼は巨体をゆすって豪傑笑いをした。
 われわれが転進するためには、米軍がやってくる道を一粁ほど進んで、それから右手の山道に入ることになる。米軍がいかにのろのろ進んでいるにせよ、こちらはそれに向って進む以外道はないのだから、ぐずぐずできない。西田の報告が終るや否や、私は出発の命令をくだした。
 鉱山をでて間もなくすると、道はだらだら降りになり、左手に川が涜れ、川に沿って禿山が迫ってくる。こんなところで米軍にあったら、逃げるには川を渡って急傾斜の禿山を越すしか方法がないから全滅してしまうなと思いつつ歩いていると、川の中でゆうゆう水浴をしている一人の男にであった。
 おい、お前一人でどうしたんだ、何処から来たのか、どこの部隊か、ほかの人達はどうしたのかとたたみかけて聞いてみた。やおら水から立ちあがった男は、自分一人でバギオから来ました、注射液が多すぎたんですよと理の通らないことをいう。
 それはこういうことだった。バキオを退却する時、病院では動けない患者に注射を打って殺してしまった。彼も動けないでいるところを注射をされたが、注射液が多過ぎたため助かった。それで一人でバギオから逃れてきて、垢をおとしているところだというわけだった。
 地獄の三丁目から引き返すという言葉があるが、彼の場合は、地獄の三丁目も本丁も一目散に通り抜けて、またこの世に戻ってきたことになる。こういう不死身の男が、我々の援護を必要とするとは思えなかったから、ただ間もなくここにも米軍がくるよということだけを伝えて通り過ぎた。
 もうすぐ山道への入口にかかる頃、こちらに向ってやってくる軽装の十人の兵隊に会った。今からどこに行く気か。間もなく米戦車隊がここにくるのにととがめると、患者を途中においてきたので連れにゆくという。そういう余裕はないから引っ返せといったが、彼らは上官の命令ですからといって聞かない。急いで戻りますと振り切って行ってしまった。彼らは中地区隊所属の兵隊たちでないことが、いくらか気を安めたが、無茶な命令をくだす上官もいるものだと腹立たしかった。
 山道に入って二十分位歩き、山のかげになったところで我々は露営をした。もっと先に行った方が安全だが、任務上そう先へは行けない。テントを張り終えると兵隊たちは食料さがしに行った。その一人が帰ってきて告げた。うしろの道路を米軍の戦車がもう通っておりますと。あれから小−時間しかたっていない。我々が逃げ込んで十五分か二十分して、米軍が入口付近に到達した勘定になる。
 あの地獄をつき抜けてきた男は滅多なことで死ぬことはあるまいが、十人の兵隊たちはどうなったろう。それが気がかりだった。だがそれも間もなくわかった。それから三日ほど経って、その中の一人に出会ったからである。十人のうち生き伸びたのは一人だけだという。戦車隊に遭遇して、川を渡って禿山をよじのぼって逃げる途中、他の九人は皆やられ、彼だけが奇跡的に助かったのだということだった。何人かの患者を助けようとして九人の元気な兵隊を死なせ、患者も助け出せなかったわけだ。指揮官の明不明が、このような無駄な損害を招くことにもなる。
 我々が危機一髪のところで、間道に逃げ入ることができたのは私の明敏さによるものでなく、西田兵長の状況判断に負うものだったが、しかし結果的に私が愚昧な指揮官というそしりを受けずに済んだことは幸いなことであった。