桃源境

 転進援護隊らしく、吾々は敵に最も近い位置に露営をした。丘を一つ越した道を米軍の戦車が通っている。こんな所では糧食も手に入るまいから寝るより手がないだろうと諦めていると、部下たちが思いがけなく水牛の片足を運んできた。一頭を仕とめたが、どうせ全部は食べられないから片足だけかついできたという。足一本でも優に豚一頭分を超す。
 飯盒に一杯ずつ、みんなが水牛の肉を煮て食べた。三ヵ月ぶりの肉であった。私も部下もがつがつ食った。長い間の飢えを一時にいやす思いであった。すごく硬い肉であるが、物ともせず呑みこんだ。
 しかし長い間硬い物を食べていなかったので、歯が耐えられなかった。水牛の肉は弾力性があって硬い。余程丁寧に噛まないと飲みくだせない代物である。オットセイの肉ほどではないが、しかし老朽馬の肉の二、三倍も硬い。いそがずに噛んで食べればよかったのに、腹の方で承知しなかった。何せ一月末に部隊に赴任して以来、肉など一片も食べていないのだ。上下の歯は、急行列車の車輪以上に速く動いた−−そしてプツッという音がした。真申の奥歯にひびが入ったのだ。この時は大して痛くもないから、尚もがつがつ食ったが、このひびのため、あとでたいへんな苦労をすることになった。丈夫な歯が真二つに裂けて、生きた神経がむき出しになったのだからたまらない。普通の虫歯の何倍もの痛さを経験することになったが、しかしそれは後の話である。
 翌日行動を起し、なるべくゆっくり歩くようつとめたが、ともすると他の部隊を追い越してしまう。援護隊が先に立ってはおかしいので、わざと遅れる。そんな日が二日程つづいた。先にゆく連中は食べられるものは何一つ残してゆかず、たれた野糞だけをいたるところに残してゆく。われわれは水牛を食べてから、食料にありつけないので糞もでない。
 これではたまらん。何とかせにゃと思っていると、三日目あたりか、右の方に山腹に小径が通っているのを見つけた。誰もそっちを通ろうとしない。よし、あの道を行ってみよう。大部隊の通ったあと、糞だけを見て進むのは何としてもつまらん。さいわい、米軍が追いかけてくるけはいもないから、援護の必要もなさそうだ。あの山のかげに行けば何か食べるものがあるに違いない。腹がへっては戦はできぬという諺もあるではないか。
 勝手な理屈をつけて、私たちは右手の山道に入って行った。そして頂上に立った時、私の判断が適中していた事を知った。いや想像以上の、桃源境ともいってよい、豊かに息づいている村落であることを知った。そこは谷川をはさんだ 摺鉢状の村であった。平地はわずかだが、山襞のかなり上まで耕やされて水田になっている。そして山には五六頭の馬が放牧され、ゆうゆうと草を食んでいる。戦争など何処吹く風といった落ちついたたたずまい、久しぶりで見る平和な生きた
村の姿であった。
 これまで我々の通る村は、すべて死んでいた。住民は逃げ去って居ないし、家畜も作物も何一つ残されていない、あるのは行き倒れの日本兵の腐爛体や白骨、またはその排泄物だけ。鳥や虫さえ鳴かない−そんなところばかりだった。
 我々のあとに続く日本兵の姿は無かった。この谷あいの村に入りこんだのは後にも先にも私の隊だけである。川べりの三軒ぐらいの農家に分宿したわれわれは、早速馬を一頭射殺してわけて食べた。馬は十頭以上もいることがわかり、一頭ずつ食べてもかなり食べられるという計算であった。フィリピンの馬は、内地の一才馬位の大きさの可愛いい驢馬で、肉は柔らかくおいしい。牛肉と少し変った風味であるが、牛や豚と匹敵する味わいで、水牛の肉など足もとにも及ばない。 そうしているうちに部下が稲の倉庫を見つけた。米にして何俵分もあるという。早速それも搗いて食べた。久し振りの大盤振舞であり、大尽ぶるまいであった。−そうしてふと外をみると住民が三人、山に登って行く姿が見えた。住民がわれわれの前に姿を見せるのも久し振りのことであった。彼らは殺された馬の臓物などを拾いに行ったのであった−そして帰りに私のいる家に立ち寄り、控え目な抗議をした。流暢な英語であった。最初私が応対したが、早口の英語についてゆけずにいると、傍の緒方軍曹がひきとって応答しはじめた。少年時アメリカで暮した緒方軍曹の英語は、彼らのそれ以上に流暢で、私は傍で暫らく呆然たるていでそのやりとりに聞き入っていた。