谷間の専制者

 その谷間は、戦場の死角になって、わずかに取り残された、豊かで平和な村であった。豚も居れば鷄もおり、馬もいた。おいしい米や野菜なども無尽蔵といってよいくらい豊富であった。われわれは食べに食べた。豚の丸焼きを食べたのもこの時初めてであった。私は仔豚の丸焼きを一人で一頭平らげた。腹部に野菜をつめこんで焼いた仔豚の味は、今でも忘れられない。中でも一番おいしかったのは、その脳味噌であった。
 村民の集落は、狭い谷の奥深く入りこんだところにあった。我々の宿営している中央部の建物は、何か行事をやるときにでも使う家らしかった。その狭い谷へ入りこんで村民達にも接した。武装している我々の姿に驚いて、男は病気を装って寝こんでいたが、女達の態度は悪くはなかった。少くとも敵意をむき出しにしたものではなかった。鶏を追いかけて発砲した部下を叱りつけて、私はできるだけ村民達の憎しみを買わないよう気を配った。
 私は今やその谷間の村の専制者であり、絶対者であった。部隊にいれば最下級の将校に過ぎない私も、此処では最高の権力者であった。階級的に最高位だからというだけでなく、この豊かな村へ導いたことへの感謝が、敬意にも傾いて、私はこれまでにないよい待遇を部下達から受けはじめていた。
 桃源境ともいうべき、この村から何で急いで部隊を追いかける必要があろうか。此処に較べれば部隊のいるところは地獄に等しい。地獄への道は、ゆっくり行けばよい。私は糞落ちつきに落ちついていた。五日過ぎ六日過ぎても私は腰をあげようとしなかった。兵隊達の搗いた米も、各人が背負いきれない程の量になっていた。最初のうちは、突然熱を出して寝込んだ当番兵の牧瀬袈裟一のせいにして腰を据えていたが、牧瀬がとうとう助からず、死んでその葬いを済ましたあとも、私はそこを動こうとしなかった。また部下の誰一人として早く此処を発ちましょうと申し出る者がなかった。
 グァム島で横井さんが発見されたあと、ミンダナオ島の集団脱走者のことが新聞に載った。その集団脱走者の家かも知れないという豪の航空写真まで新聞に載ったりした。この時のわれわれもあぶなく集団脱走者になりかけていた。脱走者という響きが悪いが、要は統帥機構から離れてしまうことである。若しもあの時あの村に住みついていたら、私達も又集団脱走者の烙印を押されていたことであったろうと、何かひやりとしたものを背筋に感じたことであった。
 今日は発つべきかどうすべきか、私の心は毎日複雑であった。転進援護隊だから、一番最後に来たといって切り抜けられる日数は、もう超していた。栄養を補給し元気を取り戻した部下たちの、何の疑いも持たず、これまでにない輝いた顔付をしているのを見ると、もう少しここに落ちついているのが当然のように思えて来、出発準備の命令を出しかねた。かくして一週間が過ぎ八日目の昼になった。
 突然 − 晴天の霹靂とはまさしくこういうことをいうのであろうが−−宿舎の前後左右に砲撃を受けた。私は今までになく周章狼狽し、宿舎を飛び出て一目散に川べりの繁みに隠れた。家を目標に撃ってくる。とにかくそこを離れなければという思いが、私を脱兎の如く走らせた。繁みの中に身をひそめた私は、とうとう明るいうちに宿舎に戻ることをしなかった。指揮官の私を目がけて敵が射ってくるような気がして、身をひそめ、こそともいわせず隠れていた。
 戦場では指揮官の臆病さが目につく。部隊長でも師団長でもそうだ。上になればなるほど臆病風がひどい。それが不思議でならなかったが、その心理がはじめてわかった気がした。専制者になり、絶対者になってみて、はじめて了解できる心理であった。敵がこの俺を狙って射ってくるという思い − それは専制者の座についてはじめて湧く思いであったのだ。
 あたりが薄暗くなってから、私は漸く繁みを抜け出して宿舎に戻った。半日も隠れに隠れていた私を、部下たちはどんな目で見るだろうか。それは分り切っているだけに、私は部下達の関心をそらす術でもあるかのように、「これから此処に出発する。早く準備をしろ」という命令をくだした。
 今から考えるとそれはゲリラの発砲であった。或いは村民が中々立ち去らない我々を、追い散らすため、即製のゲリラになって発砲したものであった。しかしこの時はそうは思わなかった。アメリカ軍がとうとうここまで追いかけてきたと思い、その事からも一刻も早く立ち去らなければと考えたのであった。
 キャンプ3の撤退が余りに急であったため、米軍がわれわれの退却に気付かず、二週間も空になった日本軍陣地と対峙していたことは、米軍の戦記が明らかにする。従って米軍としても、こういう山間部の谷間にまで兵を向ける余裕は、その頃なかったのである。水鳥の羽音に驚く平家の如く、急いでわれわれは暗くなった谷あいの村をあとにした。米の一杯つまった背嚢を背負って、依然飢餓と戦っているであろう部隊の本部へとつながる道を登っていった。
 かくて若冠二十三才にして得た、私の専制君主の地位も、八日にしてピリオドを打つことになった。その晩早くも連隊本部の露営地についた私は、連隊長や副官から叱責され、さらに中隊長からも難詰されて、言いわけに汗だくになり、大わらわになっていた。君主の地位を追われた犯罪者の如き、また奴隷の如き姿になりさがっていた。