マシロキ フジノネ

 背丈を余す高さの、立派な防空壕から、のっそり出てきた野砲隊長は、赤ら顔の巨漢で、鬼といわれるだけの威厳を具えていた。五十がらみのほりの深い顔をしていて眼光も鋭どい。威圧されてはならじと、私は中隊長から言われていった通りの口上を一気にまくし立てた。
 一喝をくらうかと思っていたが、反応は意外に冷静であった。何も野砲を引っぱるような大きな橋を架けてくれというのではない。兵隊が濡れないで通れればよいのだ。必要な材料は一切わしの部隊で準備をする。…‥それとも何かね、そのような橋でも、器材がないと工兵隊は架けられないというのかねと痛いところをついてきた。「いいえ、架けられます」と私は抗弁を余儀なくされた。無能な工兵隊と非難されないためには、そう言うよりほかなかった。
 さすがに相手は、役者が一枚も二枚も上であった。断りに言った筈の私は、まんまと術中にはまつて、引受けさせられた恰好になって、中隊に帰った。丸木橋ていどの、人の通れる橋でよいというので、それまでも断ることはできなかった由を、私は中隊長に報告した。しぶい顔で私の話を聞き了えた落合中尉は、ややあって、「その橋は貴官が行って架け給え。断れなかったんだから」と言った。
 架橋に経験の深い長尾曹長以下二十名ほどの兵隊を率いて、私はアグノ川 (或いはその支流であったろうか、はっきりしない)の架橋に赴いた。私自身は全くの未経験な仕事である。だから経験を積んだ下士官をという要望を出して、長尾曹長をつけてもらったのであったが、しかし一方では、たかが丸木橋ていどの橋をという気持はあった。少し大げさな編制になったかなという思いで半日行程の架橋地点へ赴いた。
 現場に着いて見て、私の想像が甘かったことがわかった。川幅は橋脚を三つ位必要とするほど広く、水深も腰を没した。野砲隊が運んで置いてある材料も、丸木橋の程度をはるかに越える大きな材料ばかりである。これは大工事だなという思いと、野砲隊長に一杯くわされたなという思いで、私はそれを眺めた。長尾曹長は早速兵隊たちを水に入らせて橋脚の据えつけにとりかかった。だが流されてうまくゆかない。その日は陽が高いうちに仕事を中止して、テント張りと食料集めをすることになった。
 川に遮られているため、その奥にある部落は、日本兵の掠奪を免れ、芋や野菜が豊富にあった。我々は早速それらを煮てたらふく食べた。それから更に奥に十数軒固まってある部落の偵察に行った。どうせ何も残してはあるまいと思いながらも、ひよっとしたら何かあるかも知れないという思いで、私も長尾曹長に率いられる一行について行った。すると部落の中に一軒だけ、フィリピン人のものと思えない家があった。フィリピン人の家には便所がないが、その家には大小の便所があった。部屋の遣りも他のと違うところがある。あらゆるものを運んで何も残してゆかないフィリピン人の家はそっちのけにして、偵察は専らその家に集中した。そして地下の穴蔵を発見した。
 衣類や食器類や本などが隠されていた。更にかきまわしていると大きな箱の底の方に、大量の煙草がかくされていた。二十本入りのが百箱以上もあったのではなかったろうか。大戦果であった。その煙草を長尾曹長は、半分わけにし、これは俺と見習士官殿の分だといって一方を取り、残りを下士官と兵にわけた。軍隊的なわけ方だなという思いで私はそのやり方を見ていた。二分したのを更に等分して、片方をお取りくださいと言うので、私は二十五箱以上もあったろう煙草を図嚢の中に収めた。どうせ三日間だけの臨時編制の小隊である。下士官や兵に情をかけなくとも、どうということはあるまいという思いから、曹長の分配の恩恵にあずかることにしたのであった。
 それは粗製の原地煙草であったが、しかし何にも増して有難いものであった。桃源境のような谷間でも煙草だけは一本も、葉一枚も手に入らなかった。それが、こんなに多量に入手できたのだ。思い切り一本を吸うと、くらくらめまいがする。随分長く吸わなかったなという思いと、中隊に残って何もしないでいる連中に、シテヤッタリ、ザマアミロという思いがして心地よかった。だいたい難儀ばかりしていては割が合わないではないか、こんなこともなくっちゃあと腹の中でつぶやいていた。
 更に何かないかと穴蔵の中をかき廻していると、日本字の小説が一冊出てきた。それから唄を書いた一枚の紙片が目についた。それは真白き富士の嶺(ね)をローマ字書きしたものであった。ここの主人公はあるいは宣教師で日本にいたことのある人かも知れないという思いが走った。そしてマシロキフジノネ、ミドリノエノシマという歌詞を目で追いながら、久し振りの日本のにおいに、波打っておしよせる郷愁のような思いに酔い痴れてゆこうとする自分を意識した。私はその紙片の隅に、煙草や本を貰ってゆく言い訳を書き残そうとして鉛筆をとり出した。そして書きはじめたが、しかし掠奪をしておいてわびを言ってもはじまらないと思い返して、それを消し、I am sorry, I cannot hear your song.(あなたの唄が聞けなくて残念だ)とだけ書いて、紙片をもとあったところに、さりげなく戻した。それから、私は兵隊達に箱やトランクをもと通りきちんと穴蔵に直しておくように命令した。