命を大事にし過ぎたK少尉

 私は第二中隊(落合中隊)に籍があったが、そこに腰を落ち付けていることは殆どなかった。原隊に帰ったと思うとすぐ又出てゆくことが多かった。架橋から戻ったときもそうで、すぐ川越中隊に配置がえさせられた。川越中隊はもともと器材中隊であるが、器材を失ってからは、臨時に中隊を編成して、その時その時の任に当るのを常とした。この配置がえのため、私は再び小隊長になることができた。
 川越中尉指揮下の将校は、我々より少し早く補充されたK少尉とわたくしの二人であった。しかしK少尉は、この頃になってもまだ姿を現さなかった。キャンプ3ではマラリヤのため、突撃に加わらなかったが、それ以来単独に行動しているらしかった。少尉を見かけたという人が何人かいたから、体の具合がまだ悪いので、隊に戻らずにいるのだろう、元気になったら戻るに違いない、と川越中尉も私どもも考えていた。
 山を登っては降り、登っては降りする毎日であった。食べるものとては、芋と芋の葉、それからミツパと名付けていた野草だけ。それも腹一ばい食べられる日は稀であった。そんな或日、道ばたに仔馬が一頭いた。食べてくれといわんばかりに傍に行っても動かなかった。早速私は拳銃を抜いてミケンに一発ぶっぱなした。馬はピクとも動かなかった。「旧式のこの拳銃ではだめだ。誰かこの馬をやれ」と、兵隊たちを振りかえって言った。「こんなのにタマを使うのは勿体なかとです。向うでばらしてきますタイ」 と言って、馬をひっぱっていったのは、西岡兵長であったろうか。それにしても、一日の行軍も終ろうとする頃、向うから道端に出てきてくれるとは、なんともありがたい仔馬ではないか。
 しばらくしてテントの中にいる私の所へ、西岡兵長が来て言った。「小隊長殿はサクラの刺身を食べたことがありますか。」「サクラって、馬肉の刺身かい。ないネ。だいいち、醤油もないのにどうして刺身が食べられるかネ」というと、西岡は 「魚の刺身など問題にならんくらいうまかとです。粉末の醤油を持っていますケン、ためしに食べてみてください」といって、肉と粉末醤油を水でといたのを、運んできた。
 なるほどオツな味で、悪くないなと思って飯盒のふた一杯の肉を平らげた。本物の醤油があればもっとおいしいだろうにと、それが残念であった。 −− しかしシシを食ったむくいはてきめんであった。その晩、ピンポン玉位のできものが体中に吹き出した。幼稚園児のそれのように小さく萎縮してしまっていた男性のシンボルも、握れないほど太くふくれあがった。西岡の折角の好意に、気を悪くさせていけないと思ったから、その事を私は誰にも言わなかった。もう一つは指揮者が体の具合が悪いというような事を兵隊に言うと、その士気をそそうさせてしまうので、滅多な事で弱音を吐いたりすまいという思いからであった。私以外の人は、サシミを食べても別にどうともなかったようだ。
 その頃、何カ月ぶりかで、糧抹の給与があった。米、塩、豆など若干ずつではあるが配給された。私は受領に下士官をやって、みんなに平等にわけるよう指示した。
 K少尉が忽然と現れたのは、その日の夕刻であった。どこで聞いてきたのか、少尉は配給の事を知っていて、自らの分け前を要求した。今後、隊に戻るものと思った川越中尉は、とまどいながら彼に食料を分配し、とりあえず彼を後藤小隊付にすると申し渡した。隊付というのは、下級のものがなるのが普通で、上級者がなるのは変である。言われた私も戸惑ったが、そうかといって自分の小隊をK少尉に譲り渡す気もなかった。私は気はきかないが、愚直で命令に抗らわないBという兵隊を呼んで、こっそりK少尉の世話をするよう命じた。気のきいた兵隊は、卑怯者の少尉の当番はごめんですと断りそうだったからである。
 その日の夕食に、馬肉を煮たのが出た。仔馬の肉を塩づけにしてとっておいたものらしい。たいへんなご馳走である。しかし私は、やっとおできがひいたばかりなので食う気がしなかった。Bに言ってそれをそっくりK少尉に持ってゆかせた。K少尉はたいへん感激して 「ごちそうさま、後藤見習士官によろしく」と、何度もくりかえして言った、とBが帰ってきて告げた。おそらくBは「小隊長殿が、ご自分のをそっくり少尉殿に持たせてよこしました」とでも言ったのであろう。少尉が有難がるのも尤もだという気がした。私としては、下級者の隊 付にされた少尉への、せめてもの慰めが一つ果せたような気がした。
 私は自分の食事を残して当番兵にわけてやるようなことはしなかった。一度そういうことをすると、当番兵はいつもそれを期待するようになる。それを望ましくないことと考えたからであった。たまさかの歓喜が、度重なる失望と落胆に優るとは思えなかった。だからその時もほしくない肉を当番兵にやろうとは思わなかった。かと言ってそれを翌日に残すのも女々しい気がしたし捨てるには勿体ない気がした。そんな時ふと思いついたのがK少尉であった。私としては食べたくない肉を処分するのに、少尉を利用したに過ぎなかった。「馬肉の煮つけはK少尉の所へも持って行ったのか」と聞くと、Bはそんな事はとんでもないというような語調で、「いいえ」と答えた。常日頃私は食べ物は誰にも平等に分配するよう申し渡していた。少尉とて小隊付になった以上、平等に分配を受ける権利があるはずだ。その事への見せしめもあった。
 翌日中隊は、北を目指して又行軍を開始することになった。中隊長の命令を、私はすぐK少尉に伝えた。ところがBは、K少尉のテントはもうひき払われてなくなっていること、少尉がどこに行ったか皆目見当がつかないことを、おったまげたというような面体をして私に告げた。
 少尉の行方はそう追求せず、中隊は出発した。そして登り坂にさしかかって小一時間行った頃であったろうか、路傍にいる少尉に出会った。少尉はテントにひろげたゴミの中から豆を選っていた。一粒一粒芥から拾いあげては、袋に入れていた。それを見た川越中尉は、
 「K少尉、そのていたらくは何というざまかね。おまえはもう中隊に戻らんでもよい。いや戻っても、わしの隊では世話せんから、そう思え。あきれた奴だな。」
と声を張りあげていった。そういわれても、少尉は豆を選る手を休めなかった。眉一つ動かさなかった。私は黙って側を通った。
 K少尉が中隊に戻ったのは、結局配給を貰うためであったようだ。道ばたの、見える所で豆を選っていたのも、馬車馬のように隊列を組む我々への、見せびらかしだったような気もする。お前らは、ばからしい戦争に何で命まで投げ出そうとするのか。要は生き永らえればよいのだ。何のために馬鹿げた苦労をするのかと少尉は言いたかったのかも知れない。
 それ以来、K少尉は原隊に戻ることはなかった。終戦になって、連隊が集結した時も少尉の姿はなかった。−−彼の行状を聞いたのは終戦になって収容所に収容されてからであった。マラリヤで落伍した松尾兵長が、彼の終蔦の模様を私に話してくれた。K少尉は、ルソン島の東海岸に出て筏を組んで台湾に渡り、更に内地に帰ることを考え、落伍兵に呼びかけて、かなりの人数を集めていた。そしていよいよ行動開始という時に、ゲリラの襲撃を受けて、弾丸に当って死亡したということであった。それも裏口から一人で逃げ出そうとして、走ってゆくところを背後からうたれた由である。落伍兵たちと力をあわせて家の中で抵抗すれば死ぬこともなかったろうに、と松尾兵長は同情と軽蔑の入りまじった口調で語るのであった。
 K少尉は反戦主義者であったといってよいであろう。キャンプ3の攻撃の際のマラリヤも、兵隊達が想像したとおり、或いは装われた病気であったのかも知れない。戦うことは極力避け、自らは生きて日本に帰り、平和に貢献(?)したいと考えた人らしかった。たしかに平和な日本にいれば、スマートな有能な社会人として通る人であった。投降して捕虜になれば、日本に帰って格好が悪い。できれば日本兵のまま帰りたい。残った連中は我利我利亡者ばかりだから、一人残らず戦死するだろう。そんなのは比島に残して、自分は筏で日本に帰ろう。
 反戦主義、平和主義の評価される戦後の風潮からすれば、軍の命令を唯々諾々と聞いていた我々より、Kのような抗命者の方が、高く価値づけられそうである。生きて帰っていれば、ひょっとするとKは英雄扱いを受けたかも知れない。だがみんなが命を投げ出して戦っている時に、自分一人が生き伸びようとした行為は、軽蔑、反感の眼で見られても仕方のないものであったし、現在においても我々の胸からその気持を払拭しきれないのも、また致し方のない所であろう。
後記 最近聞いた話だが、山形高校で同級の宮原君は、実際に筏に乗ってルソン島から台湾にたどりついたという。彼は水兵であるから、その渡航は公認されたものであったのだろう。然しこの海のつわもの達にして、助かったのは二十数名のうち五名というから、戦場にとどまった場合の生存率と大差がなかったことになろう。