児玉参謀と山下将軍の煙草

 六月下旬か七月上旬ごろのことであったろうか。軍司令部へ連絡に行った帰りの児玉参謀(旭兵団)に私は兵一名を連れて同行した。軍司令部はプログ山の東北部のキアンガンに、師団司令部は南西部のタキヤクにあり、我々は中間地点の、プログ山東北峡谷にいた。師団司令部までは三泊四日の行程であった。児玉参謀は参謀肩章も階級章もつけず、襦絆姿で軍刀をぶらさげていた。だから路傍の兵達は時々欠礼した。
 すると参謀は、烈火のように怒鳴りつけた。こんな場合、下級の者はそれをひきついで、相手を怒るのが軍隊のならわしであった。しかし私はじっと眺めていて口を出さなかった。なかなか怒声が静まらないときだけ、相手の傍に寄って低い声で、「参謀殿だ。敬礼しなさい」と言った。
 食事時になると、参謀は、「俺のはいいよ」と言って、何処かで炊さんをして食べてくるようだった。「西岡兵長にやらしてください」と言っても、「かまわないでいい」と言って姿を隠した。見習士官の私が当番兵に食事の準備をさせるのに、参謀の少佐は自分でやるのであった。私は全部食べてしまうことをせず、参謀の分の芋を取っておいて進めると、「そうか、すまんなあ」と言って食べた。しかし、自分の持っている米を出して、西岡に炊事させることは遂にしなかった。
 西岡兵長は、信長に仕えた木下藤吉郎のような男であった。姿が見えないと思って、「西岡兵長」と呼ぶと、数秒後にはぱっと現れて敬礼した。関東軍時代の規律をそのまま持続している、数少ない一人であった。当時の兵隊は、如何にして楽をするか、さぼるかだけを考える者が多かった。上官の言葉でも聞こえないふりをし、仕事を言いつけられると病気をよそおうような兵隊が大部分であった。もっとひどいのは、わざと落伍して、自分の食うことだけをしていた。そんなのがうようよいて、時には落伍兵だけで集団をつくっていた。
 そういう末期的症状を呈してきた中で、私の小隊はなお軍律を保っていた。下士官は私の命令に忠実であったし、下士官は下士官で兵隊に対し相応の威厳を失わなかった。こんな状況の下では応々にして実力のある者が幅をきかして、上の者を馬鹿にするようになってくるものである。だが私はそういう統帥の乱れを許さなかった。だから西岡だけが命令に従順だったわけではないが、しかし西岡のように機敏に反応する部下も珍らしかった。
 テントの準備も食事の準備も、参謀はせっせと自分でする。私は西岡まかせで何もしない。どうも階級が逆になったようだなと思いつつ、何時か参謀から「生意気だ」と、ガンとどやされるのではないかと思っていた。そして夕方には司令部に着くという最後の日になって、前を歩いていた参謀が、急に止った。そして、後ろを振り向くと、襦袢の襟首に手をつっこんで、何やら紙に包んだものをとり出した。
 「これは山下将軍からいただいてきた恩賜の煙草だ。二本あるが、一本は師団長への土産だ。一本を吸いたまえ。」
と言って分けてくれた。恐らく他の一は参謀長か高級参謀あたりへの土産にする積りだったのだろう。どやされるかわりに、私は大事な煙草をわけてもらったのであった。
 児玉参謀がほめて話したのであろうか、挨拶に行った高橋高級参謀(大佐)の受けも大変良かった。十分程話をして引きあげようとすると、「ここに泊まったらどうかね。かまわないんだよ」
と進めてくれた、側で中尉が食事の準備をしていた。中尉が当番兵の代りをする小屋に、見習士官の私がお客様然と泊まったりするわけにはゆかない。「当番兵が天幕を張って用意しておりますから」と言って小屋を出た。
 「川越中尉は、いい見習士官を持っておるのう。」と大きな声で言う高橋参謀の声が、小屋の外に出た私の耳にもとどいた。
 師団長にも挨拶してゆくよう言われたので、翌朝その小屋にゆくと、洗顔に起きてきた師団長の西山中将と、流れの傍で会った。「工兵隊の後藤見習士官です」と言うと、「後藤見習士官か。頼むよ」と言われた。
 この時児玉参謀に同行し、高級参謀や師団長に会ったことで、私は司令部付にされることになった。そして師団長の壕掘りという大変難儀な仕事をさせられる破目になった。こんな事なら児玉参謀を本当に怒らせておけばよかったと後悔したが、後の祭りであった。