山ヒルのこと

 ここで山ヒルのことについて一言触れておこう。ルソンの二千米級の山のじめじめしたジャングルには山ヒルがいる。日本の水の中にいる蛭より細く、針位の太さで、木の枝や草の葉などに尺取り虫のようにくっついている。それが一寸した隙間からでも、もぐりこんできて血を吸う。
 巻脚袢の下でも、靴下の中にも、いつの問にか入りこんでいる。吸いはじめる時も吸い終る時も感覚にまるで刺戟を与えない。何かぬるぬるするなあと思って、脚絆を坂り、靴をぬいでみると何匹ものヒルが丸々と血を吸って小指の先位に肥え太っている。すっかり血を吸い尽すと、吸い跡から血が出ないが、途中のをむしり取ると中々血がとまらない。
 それでなくてさえ、栄養が足りなくて痩せ衰えている私どもから生き血を吸うこの小虫は、われわれにとっての大敵であった。ヒルがいるから注意しろよといっても目にとまらない細さなのでなかなか防ぎようがなかった。ヒル地帯に入ったら、そこを急いで通過するより手はなかった。
 二千米もの峠を越すと、やれやれと安堵して休憩したくなる。疲れのため、ついうとうと眠ってしまうこともある。そういう所に待ちかまえているのが、このヒルどもである。私達が越した峠でも、五、六人がこのヒルに血を吸い尽されて死んでいた。白い蝋のようになって血の気がまるでない。それでいて安らかな面相をしているのは、うとうとしている間に血を吸い尽されたものと見える。
 峠に出て一休みしたいところだが、私は休むことを制止した。何か異様な雰囲気がただよっている。その時はまだヒルに気付かなかったが、それから小一時間降って、小休止した際、ただ通ってきただけの我々でさえ、五六匹から十匹くらいのヒルにくいつかれていることがわかった。あまり憎いので、その太った奴を石でたたきつぶすと、自分の血があたりに飛び散った。石田徳氏の「ルソンの霧」(朝日新聞社刊)を読むと、この血を吸ったヒルを、ぺろりと食べてもとを取りかえしたと書いてあるが、私にはとうていそんな気にはなれなかった。それからは時々ヒル地帯を通ったが、せいぜい靴で踏みつぶす事ぐらいで、腹いせをするに過ぎなかった。
 それにしても、血を吸い終ると、自分自身の太さのため、身動きができなくなるのに、脚絆の下などにもぐりこんで血を吸うヒルどもの了簡は一体なんだろうといぶかしく思った。兵隊達は血を存分に吸い尽したヒルは、やがて死んでしまうと言っていたが、それなら尚更である。そうでなくとも太って動けなくなれば必ず見つかり、見つかれば必ず殺される道理がわかっていて、なおかつ彼らは一瞬の快楽(けらく)を求めて人間にとりつくのだろうか。それとも自分達の縄張りに入りこんでくる物共を追い払うために、一部が犠牲になって、こういう挙に出るのだろうか。いずれにしても不気味で原始的な奴らだと思ったが、しかし考えみると日本の特攻隊員や斬り込み隊員も、行けば必ず死ぬことがわかっていて出撃する点では、このヒルどもと大差がないことになるのかなあと思ったりした。