野豚を仕とめる

 歯科医をさがしに行って、ジャングルに踏み込んだ私は、蔦や蔓がからみ合って四辺を閉しているところにも、這えば通れるくらいの道があることを見出した。これは獣どもの、多分野豚の通る道に相違ない。その道は複雑に曲りくねっているが、何本も錯綜しているわけではない。一本の道がそっちに曲り、こっちに曲りしているといった感じである。そしてその道以外のところは獣でも絶対通れないほど枝や蔓がからみ合って先をふさいでいる。
 その晩、兵隊たちを集めて、私は別の山には必ず野豚がいること、そしてその道は複雑に見えて意外に単調な一本道であるから、根気よく待てば必ず野豚が現れるであろうことを説明し、明日それを射に行くよう要求した。私たちは蛋白源に飢えていた。路傍に先方から現れてくれた仔馬を食べて以来、一カ月以上も肉を食べていなかった。なんとかこのへんで補給せねばと考えていた時であった。
 翌日、元気な五六人の兵隊が勇んで出ていった。そして昼すぎ、一人帰り二人帰り戻ってきたが、誰も空手である。いくら待っても野豚は現れなかったという。そんな中で二人だけ夕刻近くまで帰らなかった。出ないのならもう帰ればよいのにと思っていると、二人は棒に吊るした大きな野豚をかついできた。十貫目以上はあろう、すばらしい豚である。
 フィリピンの野豚は、猪のように牙の出た黒いのが多い。これは野豚というより猪と呼ぶべきものかも知れない。だがこの時猟れた野豚は自毛のものであった。ひきしまった体躯、あらあらしい剛毛などから見て、野棲のものには違いないが、一寸珍らしい気がした。ひょっとすると、仔豚の頃逃げ出して、山で育った飼い豚の子かも知れないとも思った。しかし原住民の飼う豚も黒毛の猪状のものが大部分なのである。
 しかしそんなことはどうでもよかった。水牛よりも馬よりも、もっとおいしい、フィリピソでは最高の蛋白源である野豚が手に入ったことを喜び、私は二人の兵隊をねぎらい、その根気強さをほめそやした。そして他の兵隊たちに私は、早速二人の食事の準備をしてやること、それから獲物の豚は、絶対無駄のないよう解体することを求めた。余った肉は焼肉にして保存するから、先ず内臓みたいに保存のできないものから先に食べるように指示した。
 私は、自分の見当がはずれていなかったことを思い、内心非常に嬉しかった。この頃でも私は自分自身は一切食べ物を調達しないという方針を固く守っていた。師団司令部あたりでは、中尉でも大尉でも、芋のあるところに行けば芋を掘り、稲のあるところに行けばその穂を摘むといった具合で、兵隊同様に働くこの頃であった。しかし私は、他はどうあれ、自分で一旦決めたことは決して破れないと固く思いこんで、そういう行為は決してしなかった。そのために兵隊たちが私に謀叛を起すようなことがあれば、それは止むを得ないし、またそのために兵隊たちが食事を出さないようになれば、潔く餓死するまでだと思っていた。だが、だからこそ、私は彼らの食べることに少しは役立ちたいと思っていた。たまたま歯医者を探しに行ってジャングルに踏み込み、野豚の通路を発見したことが、今度のすばらしい獲物を射とめるのに役立つ結果になったことを、私は天の啓示の如く思ったといったら、それは少しオーバーになるであろうか。