蚤のマス・ゲーム


 この話をしても、誰一人信用して聞いてくれそうもないので、学校はおろか自宅でも飲み屋でも話したことのない話である。昭和二十年の七月頃のこと、所はプログ山東方峡谷で、野豚を仕止め、歯医者を探し歩いたのと同じ場所。
 われわれは新しい師団司令部を設営するため、場所の選定をしていた。プログ山に近い、かなりな高度の谷あいで、土民の家は左手の山腹に一軒、右手の山上に二軒しか見当らないさびれたところであった。フィリピンの山地民族は、千米、二千米の高地に家を建て、谷間ちかい所などは、却って避ける傾向がある。この話の舞台になる左手の一軒家も、かなり急な勾配のところにへばりついたように建てられていた。
 私は一人でその家を探索に行ってみた。住人は逃げていないだろうし、家財道具や食糧なども持ち去られて何も残っていないだろう。しかし司令部が移ってくる場所だから一ペんは偵察しておく必要がある。細くて狭い道をあえぎあえぎ登っていった。
 山の襞(ひだ)になったところに百坪位を平らにして、その家は建てられていた。三方は庭で背後は絶
壁である。庭に面した三方に縁側があって、そこに一面煙草の葉が乾してあった。しめた!私は驚喜した。一枚の煙草の葉を手に入れるため、死ぬほどの苦労をした当時のことである。私はやにわに庭に近づいていった。その時である。庭が異様な色彩に彩られているのを発見したのは。三尺ほどの層をなして茶色に輝やいている。何だろうと思ってなおも近づいてみると、それは庭一面をうずめる夥しい蚤の大群であった。何万匹、何十万匹の蚤がいることだろう。まるで世界中の蚤がここに集まってきたという感じだ。そしてなお驚いたことにはこれらがすべて垂直動作をしているのだ。つまり真直ぐ上に向って跳び、垂直に落ちる。一匹として横跳びをしたりしない。蚤の一大マス・ゲームである。乱舞というには余りに整然としている。跳ぶもの、落下するもの、それが平均しているので、常に三尺ちかい茶色の層が庭の上の空中に形成されているわけだ。しばらく私はその壮観に見とれていた。
 それから私は、しやにむに蚤の大群をつっきって、煙草の葉にとびついていったことは言うまでもない。(山形大学「学園だより」の「教室で聞けない話」の欄に書いた文を要約したもの。)

2

 数ヵ月前のことになろうか、朝のニュースで、蚤の最高跳躍力が二六・四pであると放送しているのを聞いた。寝床の中で聞いたので調査者の名は忘れてしまったが、相当期間多くの蚤を観察した上の結論であるということであった。
 昭和四十六年に右の文を書いた直後も、君の話はどうも信じがたいと批判をする人もいたが、蚤の最高跳躍力が二六・四pであるということになれば、私が三倍も水増しして嘘を書いていたことになってしまう。戦争中で、測ったわけでもないから、かなりな思い違いがあるにしても、二六・四pと九〇pでは違い過ぎる。蚤や虱(しらみ)は、日本でもフィリピンでも、違いがないから、地域差のせいにするわけにもいかない。
 それで私は、次のように考えた。その測定者は、走り幅跳びの高さと、走り高跳びの高さを、取り違えて計測したらしい。普通蚤が跳びはねるのは、先に進むためで、いわば走り幅跳びである。走り幅跳びをさせておいて、いくら高さを測っても、最高跳躍力の数値は出て来ない、と。蚤がまっすぐ天に向って跳び、垂直に落下して元の位置に立つ動作は滅多に見られるものではない。私が見たのも、その時一度きりで、二度と見ていない。
 しかし私も長い間、二つの疑問を抱きつづけてきた。一つはどうしてあれほどの蚤がその一軒屋の庭に集まったかということ、もう一つはどうして一斉に垂直動作をしていたのかという疑問である。
 後者の疑問は未だに釈然としないものがある。しかし前者の疑問を解くのに役立つような資料を三、四年前手に入れることができた。それは 「西征日記」 と題する、西南の役の従軍記である。鹿児島県御用係の下阪岩村に仕えた菊池対三という人の記した、この日記は、序文に「総テ余ハ不文ナル故ニ事実ヲ書キタル迄ニテ探究潤色等スルコト出来ズ」 とある如く、気取らず誇らず出会った事柄をあからまに書き記したものである。そしてこの中に蚤の猛襲になやまされる条が再々出てくる。中でも

 九月六月 主人溝口 久保田 南藤三人ニテ延岡ヨリ帰来
 夜九時加治木ヨリ電報 県令着 仮県庁ヲ加治木二開ク云々
 此日 主人 溝口 久保田 余卜共ニ四人官舎二移リ同宿 蚊蚤甚敷終夜不寝
 翌朝各自ノ毛布ヲ検スルニ一枚ニテ三百匹ヅ、蚤ヲ取レリ 可驚

のくだりは、記述が具体的である。
 一枚の毛布から三百匹もの蚤をつかまえたとなると、一人が二枚ずつの毛布を使用したとして、それに人数分を掛けて、二千数百匹もの蚤を坂ったことになろう。そして蚤はそう簡単につかまえられる代物ではないから、実際にいた蚤は、その数倍になろう。するとどうやらこの家には万を越す蚤がいたと考えてよいようである。
 戦場になって、鉄砲や大砲の音がし出すと生物界に異変が起る。烏でも獣でも蛇や蛙や昆虫のようなものでも皆逃げて姿を見せなくなる。昨日までの賑やかな楽園が、一変して死の谷間に変貌する。そして残るのは、人間を襲う蚤、虱、ダニ、南京虫、蚊、蜂、蝿、山ヒル(これは南方にしかいないが)といった類になる。これらは天敵がいなくなるためか却って繁殖する。蚤とか南京虫とかには、人も天敵の部類に入ろうから住人の逃げたあとの家には、一時的にでも猛繁殖するということが考えられる。西南の役の鹿児島や大東亜戦争下のルソン島に、蚤が猛発生したのもうなづけることである。
 一方垂直跳びの方は、未だ釈然としないが、しかし一平方pあたり何匹といった密度で蚤が発生した場合、彼らの一匹一匹に許される行動範囲は上空しかないことになるだろう。ルソン山岳州の一軒屋の場合も、庭の周囲には草木が密生していて、一番近い家でも一キロ以上離れていたから、散らばるにも行きどころがなかったのではあるまいか。
 とにかく私は、蚤属の名誉のためにも、二六・四pという記録は、全く誤った計測で信ずるに足らないものであると弁明しておきたい。立ち跳びでは、いくらも跳べまいと思うのは、人間を基準とした勝手な推測であって、落下した反動で跳上がる蚤の高さは、意想外な高さに達するものであることを、ここに力説しておきたい。