マラリヤと蜂の襲撃

 それまで怪我もせず、病気で休むこともなかった私も、遂に落伍した。七月に入って新しい司令部の適地を探して、行軍をつづけている途中であった。マラリヤの熱が出て、どうしてもみんなについてゆくことができなくなった。その時は司令部の大尉が十五名ほどの部下を率いてリーダーになり、私は工兵隊の兵を十名引き連れていた。
 民家もなければ、畑もない全くの山の中であった。小径はあるが通る者がいず、小鳥さえ鳴かなかった。蝶や蝿まで見かけない閑寂な緑の潅木の中で三日間、私は寝返りをうつのも億劫な風に寝つづけた。連日さいなまれつづけた飢餓感も全くなかった。いよいよおしまいかなという気が心の底でした。落伍兵が野垂れ死してゆく過程がわかる思いがした。
 しかし有り難いことに、私には小川上等兵という当番兵が、看病のため残ってくれていた。私が兵卒なら、一人で見捨てられたであろうに、将校であるが故に、こういう人を残していってくれる、つくづくありがたいことだと思った。小川は芋粥などをつくって、最初の日からすすめるが、箸をつけることができなかった。こんな事は、マニラでデング熱にかかった時以外にないことであった。三日目の夕方になって、やっと芋粥の汁を吸う気になった。
 翌日、ぼつぼつ後を追いかけようかと、身仕度を整えた。そして山腹に腰を下したままの姿勢で、私は和歌を朗詠した。万葉集の
  足引の山川の瀬の鳴るなへに弓月ケ嶽に雲立ち渡る
という歌を吟じて見ると、意外によく声が出た。それで防人歌の二、三などをつづけて、朗詠した。
 すると傍で黙って聞いていた小川が、朝鮮民謡のアリランをうたい出した。美声であった。米軍上陸後、唄をうたうなどいうことはなかったことなので、部下にこういう美声の持ち主がいることは勿論知らなかった。その時の小川のアリランは、未だに耳底に残って生きている。
 一行に追いつくと、大尉は恩知らずめがと、ぶつぶつ文句を言っていた。何のことかと思って聞いて見ると、四十位の現地の女を捕えたので、飯焚きでもさせようと、面倒をみてやっていたが、不寝番が居眠りしている問に、逃げてしまった。毛布も着せてやったのに、それまで持っていってしまったとぼやいていた。しかしこれは文句を言う方がおかしいと思った。どんなによくしてやったか知らないが、思を着なければならないほどのことはしてやっていない筈だし、大体こちらが侵入者で、彼らの作ったものを、勝手に取って食べているのだ。捕虜の状態から脱しようとするのは、当然の事だと、おかしくなった。
 しかし、この大尉はよい人で、逃げ遅れた足の悪い老人に食事を運ばせたりしていた。部下の兵達にも威張らないし、田んぼの稲を見つけると、自ら仲間に入って穂を摘んだりする。作業も指揮をするだけでなく、自分で手を貸す。その点、何もしない私と対照的であった。特にそのころ私は高熱のあとの虚脱感で、朝など遅れて小家造りの作業場にゆく。そんな日が二、三日続いて、とうとう大尉から一喝をくらってしまった。部下だけよこして、あとでのそのそやって来てそれで監督ができると思うかと、大声で怒鳴って、私が恐縮すると、あとはさっばりと元の姿に戻った。大尉としては、位が自分より低いのに、何もしないでいる私が、小生意気に見えて我慢がならなかったのであろう。
 この候補地も師団司令部のOKが得られず、我々は伝令の帰るのを待って更に北へ移動した。日本兵の白骨死体や腐らん死体が、点々と路傍に横たわっていた。海軍や航空隊の兵隊が先に入りこんでいるようであった。
 移動中、水田のあるやや開けた所で、我々は蜂の大群に襲われた。日本兵の誰かが木にぶらさがっている巨大な蜂の巣(径一米以上はあったように思う)を銃でうったらしく、何千何万の蜂が大挙して襲ってきた。一方の空が暗くなるほどの大群であった。蜂に襲われるのは、はじめての事だったので、我々は傍にくるまでうっかりしていた。刺されはじめてから、あわてふためいて逃げまどった。
 日本の地蜂と模様も色合いも同じだが、一廻り大きい。大体脚長峰くらいの大きさはあろう。刺すと針を残してゆく。私は最初追い払おうとして、手をふるったが、そんな事で逃げる蜂ではない。追い払おうとした手にもついて刺す。たまらなくなって一目散に走り出した。走っても向こうさんの方が早いが、じっとしているわけにはゆかない。幸い百米位走ると、断崖があって、そこを飛びおりたら、蜂がいなくなった。
 暫らくして、戻ってみると二人が気絶して倒れていた。帽子を脱いでいたのをやられて、頭が蜂の針で白くなっていた。一面隙間がないといった位に針がつきささっている。幸い我々一行に犠牲者はでなかったが、あの二人はそのあとどうなったことだろうか。我々はこの物騒な所を早々に立ち去ったが、こんな所にも人間でない敵がいるとは、思いもよらないことであった。