国旗を返せ

− 当番兵の死と離脱 −

1

 私たちが、工兵隊に赴任した時は、ただの見習士官で、将校勤務を命ぜられたのは、それから十日程経った二月中旬であった。そしてはじめて当番兵がつくようになった。それまで落合中尉の連絡係をしていた中村という一等兵が最初の当番兵であった。
 中村の顔は、二十九年経った今も、まざまざと思い浮べることができる。こういう例は稀であるが、不思議と彼は私の心に生きていてはなれない。整った顔立ちの、私と同年か一つ若いくらいの現役兵で、実直そのものの青年であった。彼が中隊長の連絡係から、どうして私の当番兵になったのかは知らない。恐らく川部軍曹あたりが、気まぐれに決めたことであったろうが、私としてはありがたかった。
 その頃、私は天幕(テント)を持たなかった。内地から持っていったのを、江尻丸で海に沈めてから天幕の支給はなかった。だから工兵隊に赴任する途中の十日間も、地べたに毛布にくるまって寝た。日本よりも霧の深いフィリピンのことであるから、天幕を持たないことは、つらいことであった。朝起きてみると、霧や露のため、体がしめっぼくなっており、なんとか天幕がほしいと思ったが、容易に手に入らなかった。
 そして天幕を持たないことは、それだけ当番兵に厄介をかける結果になった。当番兵が、自分だけテントに寝て、小隊長の私を雨ざらしにしておくことができないので、私の寝場所をなんとか工面する必要があったからである。
 中村は、自分のテントを私に提供して、誰かのテントにもぐり込んで寝たようであった。一緒に寝ろといっても、結構ですといってどこかに行ってしまう。そして朝になると早々に現れて私の世話をする。テントを持たないことで、私が恐縮するようなことがないように、気をつかってくれていることがわかった。一事が万事、彼は私の気持を読みとり、先手先手と掻ゆいところに手がとどくような世話をしてくれた。こういう忠僕のような兵隊が側にいて、この先私の世話をしてくれつづけたら、どんなにか助かることであろうと思って、私はたいへん意を強くした。
 その頃(多分二月の末か三月のはじめごろ)、私は患者部隊を、バギオの陸軍病院に護送する任務をもらった。リリットの方の山路から、ベンゲット道のキャンプ3に出て、砲撃のあい間をくぐって、患者たちをバギオにとどける仕事であった。数十名の患者は、みな栄養失調で、その上赤痢やマラリヤにかかっていた。健康なのは私と中村だけであった。私はその時分まだ赤痢という病気のことはよく知らなかった。ただ法定伝染病で恐ろしい病気だという観念だけを持っていた。だから患者たちに余り近よらないようにしようと思い、露営は彼らからなるべく離れたところにし、命令も中村を介して伝える事が多かった。相手が患者だから、命令の履行も期待できまい、その時はどうしたものだろうと思っていたが、中村の伝達がよかったのか、患者達が取り残されまいと努力したためか、彼らの規律は意外に良かった。
 昼の行軍は観測機に見つかるので、毎日暗くなってから出発した。夜間でも米軍は、ベンゲット道の要所要所に弾丸をうちこんでいたが、それは避けようがなかった。当れば不運、当らないことを期待するよりなかった。だがそれが患者達にあてる鞭の代りになった。後方や前方にタマが落ちて夜の谷間に鋭くひびきわたると、患者たちは、ない力をふりしぼって歩きはじめた。これが患者かといぶかしくなるような、すばやい動きも示した。
 キャンプ3を通りぬけて、私はその辺に盟兵団の工兵部隊が来ていることを知った。盟兵団の工兵隊は私の入隊した盛岡の部隊である。懐かしくなって聞いてみると大へんな痛手を受け、部隊長も中隊長も戦死して、中尉が部隊の指揮をとっており、石山彰少尉もここにきているという事であった。石山少尉は山形県楯岡出身の美術家で、入隊以来私が世話になった人であった。少尉殿はどこにいるかときくと、キャンプ3の小さな橋の下にいますというので、(このあたりはその後落合中隊が守備することになる。)二キロ位ひき返して、私は寝ている少尉を起し、あいさつをした。内地の知り人に異境で会うのは、たいへん懐しいものである。五分間ほど話をし、まだ話したいことが沢山あったが、私は残してきた患者たちが気になって引き返した。
 それからなお二日ほどかかって、ジグザグ道を登り了えて、漸く標高一五〇〇米のバギオの入り口に達した。ここで私は、俺が連れてきたのは患者だったのだなと思う事件にでくわした。排便のため遅れがちで、気合をかけてきた兵隊の一人が、小休止をするや否や、息をひきとったのである。彼は気力の最後の一滴まで、ふりしぼって急坂を登ってきたのだ。かなり重い荷物を、捨てることもせず背負ってきて、杖のように突っ立てた銃を握ったまま、坐るや否や死んでいった兵隊の青ざめた顔は、命のはかなさと、人の気力のすさまじさを物語るものであった。
 患者護送を了えた私は、バギオゴルフ場の築城本部にいる戦友の飯塚栄君を訪ねた。米沢在出身の飯塚君は、原隊時代からの親友で、前線行きを免れて本部に残っていた。彼は私が元気でいることを喜び、配給の煙草を全部出して持ってゆけといった。”ほまれ”が五・六箇あったように思う。私はそれを何もしてやれない当番兵にわけ、あとで落合中隊長にも一箱わけた。当時配給の全然なかった前線の我々にとって何よりありがたい贈りものであった。
 患者護送から第一線に戻った私は、いきなり綾部中尉の指揮下に入って、その第三小隊長になるよう命ぜられた。綾部中隊の任務は、後方の食糧の獲保ということであった。 − これはうまい話になったぞという気がした。食糧集めなら食べ物に不自由しなくなるし、タマの飛んでくる所からも遠くなる。われわれは期待を抱いて、数十キロ東方のアグノ川流域に降りて行った。
 その時、私の配下に中村はいなかった。第一分隊長の緒方軍曹が誰か新しい当番兵をつけようといったが、私はそれをことわった。ここで新しい当番兵をおいたら、中村との縁が切れる。何とか落合中隊と連絡をとって、中村を私の小隊に返してもらおう、それまでは新しい当番兵はおくまいと思った。
 穀倉地帯のアグノ川流域の峡谷にさがると、テントを持たない私のため、緒方軍曹が仮小屋を作らせた。そしてひとつおいしい食事をつくりましょうなどと言いながら、軍曹が二人分の食事を作って、私にわけてくれた。こんな事を下士官にさせておくわけにはゆかないので、新しい当番兵を考えなければと思っているうち、この食糧集めも二日だけでおわり、再び前線に呼び戻された。我々は猫の目のように変る命令にとまどいながら、強行軍を重ねて、その頃前線になっていたキャンプ3に戻った。
 それから一度ゆきずりに中村に会ったが、それが最後であった。栄養失調とマラリヤで死んだと聞いたのは、その時から十日も経たないうちだった。やつれた顔をしているなとは思ったが、死ぬほど消耗していたとは思えなかっただけに、残念でならなかった。どうせ死ぬなら、斬り込みにでも出て、花々しく死んでほしかった。それにしてもあんなに従順で真面目で素直な人間の生命を、あっさり奪ってしまう戦争というものは、なんとも非情で無惨なものかと恨みがましくなると共に、中村の死がいたましく思えてならなかった。そして当番兵として、過重な労働を強いたことも、彼の死因の一つになっているのではないかと、うしろめたい気持が湧きおこり、十年来の親友に死なれたような 虚しさにおそわれた。それはぽかっと胸の中に風穴のあいたような虚しさであった。
 (さきごろ、落合さんが社員募集に廻ってきて、私の家に一泊していった。)その時、よく聞いてみると、中村の死んだのは二十年六月十七日、ボゴドに於てであるという。落合さんの当番兵の坂口と同日に死んだのだから間違いないという話であった。とすると私は別人の死を聞き誤っていたことになり、今になって心の重荷が一つとれた感じがしている。)

2

 二人目の当番兵はたしか竹迫(たけさこ)という姓の一等兵であった。戦争の一番ひどい時期で、彼の記憶はとぎれとぎれにしか残っていない。キャンプ3の第一線で、食べる物がなく、蛇木をつぶして食べたのも、この時期であった。わらびを大きくして木にしたようなのが蛇木で、飢饉の時は現住民も食べるということであった。栄養価はゼロで、青くさい。一回目はよいが二回、三回となると、胃袋の方で受けつけなくなる。 … そんな食糧事情だから次々と兵隊が倒れた。これではいけないと思って私は元気な兵を、つとめて芋掘りに出した。陣地を守っているのは、私一人という時もあった。敵にやられる前に、餓死してしまっては何もならないと考えたからであった。
 私の小隊の防禦地は、キャンプ3の南の一番山際にある小径であった。そこを真っ直ぐうしろに登ってゆくと連隊本部があった。戦術的には、この小径を突破するのが、一番手っとり ばやい筈だが、さいわい敵は、この小径を攻め登ってこなかった。アメリカ兵は戦車を動かせないような道は、好まないようであった。 陣地について一週間ぐらい経った時、連隊長が視察にきた。その時も私一人しか残っていなかった。蛸つぼもまだ完全にはできてはいない。それを見て連隊長は「敵が攻めてきたらどうする気か」と烈しく怒った。私は、答えに窮して、「その時は一人でも防ぎます」と言って、兵隊が次ぎ次ぎ倒れて、元気なのは三分の一の五、六名に過ぎないこと、それらも食べないでいては間もなく動けなくなるだろうと弁明した。連隊長は「一緒に来い」といって、後方二百米位のところにある大塚准尉の陣地に連れていった。准尉の重機関銃陣地は、立派に整備されていた。同じ条件の下でも、これ位整備できるのだなどと連隊長は言った。しかし食糧を分けてやるとは一言も言わなかった。
 それから数日して、攻撃の命令が下った。若干ながら食物と煙草の配給もあった。航空食の餅というのも小指の先ぐらいずつ配られた。我々ははじめての攻撃命令にふるい立った。今まで押されに押され、やられにやられてきたのを、一挙に報復できるような気がした。こうなると今まで寝こんでいたような者もしゃんとしてくるから不思議である。川越中尉の指揮下に入って、その第二小隊となり、ベンケット道南側に進出し、敵陣地を占領するのが任務であった。
 私は竹迫から、国旗を借りた。祝出征と書いた、たくさんの署名のある日の丸である。私のはとうに海に沈めて持ってないので、勝ちいくさの時立てる国旗がなかった。今度の戦闘が終ったら返すといって、彼のを借りた。−この時の戦闘の模様は別に記した通りで、結果的にはさんざんな負け戦で、占領地に国旗を立てるなどという威勢のいい段階までは行かなかった。なにせあとで聞くと、吾々に命令を出した七一連隊長(工兵隊はこの頃、歩兵連隊に隷属していた)は、「気が違った」という理由で、閉じこめられて、かんじんの七一の兵隊は全然動いていないのであった。正直に命令に従って、前に出たのは、ろくに武器を持たない工兵隊だけなのだから、負けるのは当然であった。
 敵陣地を占領した翌日、一軒屋近くで、私は竹迫の国旗を、米兵から奪われてしまった。手榴弾を足もとに投げつけられた直後、私は二十米位前方(敵方)に走って、森の中に身を隠したのだが、その時装具の一部を置き去りにした。その中にその国旗も入っていたのだが、暗くなってから行ってみると、二、三の品が盗まれてなくなっていた。戦略品として米兵がまきあげて行ったのであった。
 その戦闘で、私も竹迫も命を落さずに済んだ。私は国旗を奪られて申訳がないと竹迫に詫びた。それから山岳州を目ざして大転進(退却)をすることになるのだが、その頃になって竹迫の消耗が目に見えてきた。このまま当番兵をつづけさせたら、間もなく倒れてしまうだろう。私は竹迫の当番兵を解除して、第二分隊の浜田班から当番を出すよう、命令を出した。
 竹迫の解除は、彼に対する私の好意の積りであったが、竹迫の受取り方は違っていた。彼は役立たずの廃兵という烙印を押されたように受取ったらしく、私の顔を見ると、「国旗を返せ」と言って、食ってかかるようになった。「事もあろうに米兵から取られるとは何事か」というようなことも言った。緒方班長から弁明してもらっても、一向にきき入れず、ふてくされたようになって、痩せこけて青ざめていった。「竹迫は頭が少しおかしくなっているから、よく面倒をみてやれ」と緒方軍曹にいったが、「誰にも彼にも食ってかかるので、手を焼いているんですよ」と、緒方も困った顔をした。
 竹迫は間もなく、アンタモック鉱山につく二日位前に動けなくなって、落伍した。「担架ででもお前を連れてゆきたいが、そうすると四人の兵隊が倒れてしまう。だからここに残してゆくが元気になったら、あとを追いかけろ」 といって別れたが、その時は、文句を言う元気もなくなって軽く領き返すだけであった。 彼の国旗は、アメリカに持ち去られたであろうが、今でも私はできたら、それを返してもらって、彼の墓前に供えてやりたい気がしている。