アメリカ二世の日本兵

− 緒方明のヒューマニズム −

 緒方明軍曹はアメリカ生れのアメリカ育ち、れっきとした二世であった。その事を知ったのは桃源境″のような谷間においてであった。現地人と話す彼の流暢な英語を聞いて、これは日本の英語ではないと思って、問いただしはじめてわかった事であった。小学校の一年くらいまでアメリカのカリフォルニア州で暮し、その後熊本の叔父のところで育てられたという。両親や兄弟はアメリカにおり、ひよっとすると、兄貴達はアメリカ兵としてフィリピンに来ていて、兄弟で戦っているのかも知れませんと言って、緒方はさびしげな笑みを浮べるのであった。
 二世であるが故に、緒方は日本の国籍とアメリカの国籍を二重に持っていた。従って彼はどちらに味方しても、名分の立つ立場にあったことになるから、命を賭して戦わなくともよかった筈なのに、しかし彼は立派な日本軍人であった。キャンプ3で手榴弾をなげつけられ、負傷した時なども、米兵があたりをうろうろしていたのだから、一寸言葉を掛ければ、すぐ手厚い看護を受けられる側につくことができたわけである。緒方自身その頃は、そういう精神的誘惑に悩まされたらしいことが、戦後になってはじめて分った。自分はこれで死ぬかも知れないと思った時、生き伸びる手がすぐ側にさしのべられていれば、誰しもがそれにすがりつくであろう。
 しかし緒方は、その誘惑を敢然とふり切った。そして破片を胸からえぐり出させて、薬なしに直して、その後も勇敢に戦うのである。小学校一年の時、日本に来て、日本の良さが身に沁みて、アメリカに帰る気がせず単身熊本にとどまったという緒方は、誰よりも日本兵らしい日本兵であった。私は最も難儀な時期に、彼のような分隊長をもつことを幸せに思った。彼が乙種幹部候補生にとどまったのは、恐らく二世であるというハンディのためであったろう。すべての点で私などより、上を行く人物であった。
 綾部中隊に編成されて、糧抹確保に後方にさがった時、私は緒方軍曹の人道主義に啓蒙され感心したことがある。原地人のかくれ家を見つけて緒方がいろんな野菜を貰ってきたので、私は洞窟にいるという、その現地人の所に連れてゆくよう、強く要求した。煙草の葉でも持っていたら、まきあげてやろうという魂胆からであった。この頃は緒方が二世であることをまだ知らなかった。
 しかし緒方はことわった。彼のような感心なフィリピン人を苦しめるようなことはできないから、案内できませんと言うのであった。そのフィリピン人は、みんなが逃げたあと一人だけとどまって畑を作っている。どうして逃げないのかと聞くと、「種を蒔いたり、苗を植えたりしても、食べられる頃になると日本兵が皆取っていってしまう。しかしここは私の土地だし、何時かは私の蒔いたものを、私の手で収獲できる時がくるだろう。それまで何べんでも作物を作ります」と答えたという。緒方は彼を励まして、若干の野菜を貰ってきたのであった。
 その頃の私には、人道主義のようなものは緑が遠かった。現地人を見つけたら、ぎゅうぎゅういわせて、皆しぼり取ろうといった気持でいた。しかし緒方の話を聞いているうちに、成程という気持が湧き、その比島人を感心する気持にもなっていった。
 緒方が二世であることがわかったあとで、彼が育ったロスアンゼルス近郊の農場の話などを聞いた。「アメリカの農場はいいですよ。葡萄など見事な粒をいくら取って食べても誰も文句を言わないし」と緒方が幼時をなつかしがって話すのを聞いて、私はまたあわてた。アメリカにはいい所がなく、ろくな人間がいないと話してくれるならよいのだが、緒方の話すアメリカは皆よい点ばかりで鬼畜米英のイメージとは全くかけ離れているのであった。
 事を処する際の彼のスマートさ、そのヒューマニズムなど、どうやらアメリカの土壌で育ったものらしい。アメリカという国は、これでは大変な国だぞという気がした。彼の忠誠心、信義感といったものさえ、日本育ちのものかどうか疑わしくなってくるのであった。病気で動けなくなり、長い間寝こんで、死を待つだけの、部下にも、緒方は自分の食物を分けて運んでやった。働ける人の食料を減らしたといわれないため、自分のを割いて貯めておくらしかった。こういう人にとっての彼は、神様以上の存在であったに違いない。 武装解除を受けて収容所に入ってから、緒方は、米兵として来ている二世の従兄弟に会ったという。さいわい兄弟達はヨーロッパ戦線に従軍していて、フィリピンには来ていないこともわかった。
 早々に復員した緒方は、帰国後その語学力を買われ貿易会社に入った。そしてアメリカの総領事に会った際、二重国籍が如何に本人を苦しめるものかを説き、その点に関するアメリカの政府のルーズさをなじったという。東大に復学した私は、落合氏宅に招待されて緒方と三人で往時をしのんだ。彼のアメリカ名がアレキサンダー・A・オガタということをこのとき知った。そして彼には、戦時中は人に語れない悩みがあったこともはじめて悟らされたのであった。
 前述の通り、私はむさぼらない点で落合中隊長に教えられた。そして現地人や傷病兵を大事にしなければならないというヒューマニズムは、緒方軍曹に教えられるところが大きかった。よい上官とよい部下を持ったと、今でもありがたく思っている。緒方は今アメリカに住んでいて、二十五年も会っていない。幼い頃、日本にひかれて、日本に住みついた彼だが、今はアメリカの良さにひかれて、アメリカから中々戻らないのではないかという気がする。