それでも生きていた

 終戦命令が出て、原隊に復帰してからのことであるが、第一小隊(小隊長は杉野中尉)のいる民家が火事を起した。その時あわてて逃げ出した杉野中尉は、軍刀を焼いてしまった。この事が中尉の気持を慟天させてしまった。軍人として面目ないと、再三再四中隊長の落合中尉に詫び、中隊長は別にとがめもしないのだが、自分の気持が 治まらなかったのであろうか、空ろな目つきでうろうろしていた。
 そして大事にしていた手帳も地面にほおり投げたままにしてあった。杉野中尉が毎日欠かさずつけている日記帳である。私は何を中尉が書き記しているのか、前から関心を持っていたので、それを拾い上げて読んでみた。
 「お母さん。今日も元気でした。これもお母さんが祈ってくれるお蔭です。南無妙法蓮華経。」
と、毎日判を押したように記されていた。私は見てはならない中尉の秘密をのぞき見たような気がして、急いでもとあった場所に、その手帳を戻した。
 私はその頃、神や仏を祈ることは全くなかった。江尻丸で遭難し、海中に漂っている時には、私は一心に神様を祈った。「このまま海の中で死ぬのだけは助けてくれ。その代り、上陸したら、その翌日命を召されても文句を言いません」 と、繰返し繰返し祈った。 この時の祈りを、私は神様との約束と考えた。だからそのあとでは、祈るということは一切しなかった。戦場では、どんな祈りでも結局命乞いにつながってゆく。一旦約束した事は守らなければならない。その結果、お守り袋(お守りの包み紙は、江尻丸で尻をぬぐうのに使ったので、中味だけ入っている)も千人針も、私の体から離れていった。何時それを処分したかは記憶にないが、相当早い時期であったことだけは確かである。「神様、あなたの気の向いた時に、何時なりと命を召してください」という心境であった。
 私の生母は、約束を違えると、きびしく折檻した。小学校に入った頃から、仕事を言いつけられて、それを遊びに夢中になって忘れたりした際の、母の怒りは猛烈であった。箒で叩かれた上に一時間くらい説教された。スパルタの母親達もかほどではなかったろうと思われる程の厳しさであった。だから私は、一旦約束した以上は、絶対にたがえられないものと思いこんで育った。
 それに私は、どちらかというと信心深い方であった。小学校の頃から、神社や両の前を通る時は、軽く会釈して通ることを忘れなかった。恥かしがり屋でもあったから、友達と一緒の時は、礼をするようなことはしなかったが、心の中で会釈することは忘れなかった。
 そういう育ちの私であったから、神様との約束は絶対的なものだと思ったのは当然のことである。神様は私の祈りを聞きとどけて、私をリンガエン沖の海から救ってくれた。今度は私が神様への約束を果す番である。そしてそれは何時なりと文句は言えないが、それまでは余りみっともなく生きたくはないという気持でいた。
 軍隊での補充兵の使い方は苛酷である。我々が補充されたあとも、二度くらいにわたって三十名ほどの補充兵が来た。大部分が東北出身の兵隊で、私も仲間ができて喜んでいると、一、二ヵ月の間に大部分が死んでしまった。生き伸びたのは、東根市出身の小川一等兵一人ではないかと思う。生きている間は酷使される−−これが補充兵の実態で、私といえども例外ではなかった。
 終戦になって、私が率いていた兵隊を、それぞれ元の隊に戻して整理をしてみると、私の小隊は、将校一、下士官一、兵二の四名だけになってしまった。杉野小隊も第二小隊の近藤小隊も倍近くは残っていたように思う。「ルソンの霧」を書いた石田見習士官も、立場は私と全く同じだが、途中で落伍し、一人で山中をさまよいつつ、生きて帰った。しかし最初から最後まで任務について、生き帰った補充兵は極めて少ない。工兵隊では、一中隊の平田耕 造見習士官と私、それに小川一等兵くらいのものであった。
 工兵学校の地獄坂を一緒に降りた候補生で私と一緒のグループには死者が一人も出なかった事も、全く奇蹟のように思える。即ち、

  江尻丸遭難         第二小隊全員無事
  アラビア丸遷難       第二小隊に死者なし(軽傷者あり)
  妙義遭難           同        (負傷者あり)
  マッキンレからバギオまで 残留組(三十名)全員無事
  第一線に赴任途中     十名全員無事
  工兵隊転属後        三名全員生還(松下見習士官負傷)

のようになる。一人だけの運命ならともかく、グループで、このような現象が見られたというのは、全く不思議で、稀有な出来事であったといってよいであろう。