付記 戦争のあと始末

自らを取りもどしたフィリピン人

 二十八年ぶりのフィリピンは、すっかり変わっていた。私の頭の中にあったフィリピンは、すりとかっばらいの国であった。私は服や作業衣はもちろん、シャツやズボンにも内ポケットをつけ、それにチャックまでつけてもらって出かけた。戦時中はボタンをかけた胸のポケットからさえ金入れを盗まれたし、足元においた服を、あっという間にかっぱらわれたような経験があったからである。
 十一月十三日、マニラに着いた日、ホテルに運ばれてきた私の荷物がほどけ、一部分物がこぼれているのを見た時、しまったと思った。早速やられたかと思って、ボーイが取り集めて持って来たものを点検してみると、一つとしてなくなっていないのであった。フィリピンは、窓を開け放したジープに物を置き去りにしても、リュックの紐をしめずに小学校の廊下にほおり出しておいても、盗まれることのない国に変貌していた。
 私の頭の中にあったフィリピン人は、怠け者で、のろまで仕事下手で、陰日向のある、どうにも仕様のない人間であった。だが今のフィリピン人は働き者で、仕事の手際もよく、見ていなくとも仕事をすすめる正直な人間に変わっていた。車の運転の技術なども日本人よりよほどすぐれているように見えた。四週間各地を廻っても、交通事故には一度も出くわさなかった。我々の雇ったジープは、発車するたび、押さなければエンジンがかからないようなガタのきた車であったが、峻嶮な山道を毎日走りまわっても、一度も危ない目にあわせるようなことがなかった。農家に泊まると、そこの主人は日本の農業についていろいろ質問し、示唆を得ようとした。稲の品種とか、堆肥のつくり方とか、人糞を肥料にする方法などまで、つっこんで質問してきた。そこには日本の篤農家のみがもつ旺盛な研究心、仕事に対する愛情が読みとれた。
 独立国家になって三十年足らずで、フィリピン人は、完全に自分を取り戻していた。スペイン、アメリカそして日本の軍政と、数百年間の搾取と圧政のもとにあった彼等は、怠けること盗むことなどで、圧政者に対する反抗をしていたのであって、もともと駄目な人間ではなかったのだ。フィリピンは独立してよかったなあとしみじみ思ったことであった。
 私は、フィリピンには、アメリカ色がまだまだ色濃く残っているだろうと思って行った。しかし、その想像も当たらなかった。アメリカ的なものを排除しようとする意識が極めて強かった。我々が元日本兵であることを知りつつも、元のゲリラ達は、酒を飲んだりすると、アメリカ兵は弱くてどうも仕様がないなどと悪口を言った。戦争に勝てたのは、半分以上われわれの力だといわんばかりの口振りであっだ。
 ゲリラと言えば、今のフィリピンは元ゲリラによって統治されているといってよい。マルコス大統領がゲリラの隊長であったことは周知のところだが、各界の要職にはゲリラあがりの人が多く、町長とか村会議員などにも数多くのゲリラがいた。そしてそういう人達がもと敵兵の我々に大変親切で、遺骨収集の仕事にも進んで協力してくれた。日本統治の頃、善政を布いた将校の名などを覚えていて絶賛して話してくれたりもした。昨日の敵は今日の友という言葉があるが、その昔、石をもって追い出された国に来て、戦火を交えた相手と酒を飲み、共に日本の軍歌をうたう日があろうなどとは、夢にも思えないことであった。
 「私の兄弟も戦争で死にました。しかしその遺骨も収集できませんでした。」
とダモルテスの町長は、元日本兵の遺骨は、どのように処置されたかという我々のしつこいまでの質問に、当惑の表情を浮かべながら答えた。フィリピンにおける元日本兵の遺骨の扱いは、塵芥や家畜の骨に等しく、我々に屡々 (しばしば)暗涙を催さしめるものであったが、しかしダモルテスのこの町長の言葉は、そういうフィリピン人を一概に責められない点があることを反省させた。フィリピンで五十万もの日本人が死んだが、フィリピン人の死者はそれよりも多いのである。そしてその多くは身元不明の死者として処置された。彼らが日本兵の遺骨を無縁墓地にでも葬るような気持ちになれないできたとしても、またやむを得ないものがあるように思えた。