父殺しの犯人に間違われる

 私はベンゲット道のキャンプ3という所で、あぶなく父殺しと焼打ちの犯人にされてしまうところだった。山腹の一軒屋を指さして私が、
 「あの一軒屋が、私の戦場になった家のようです。あんなに大きくなかったが。」
と、小学校長のモラノ氏(この地区の協力者)に言うと、われわれをとり巻いていた群衆の中から
 「あれは私の家だが、私の父は日本兵に殺され、家も日本兵から焼かれた。」
と言いだした男があらわれたのだ。
 燃えるような憎しみの眼を見開いて私をにらみつけている。こんな所に戦争の傷痕が生々しくうずいていようとは考えていなかったので、私は内心あわてた。勿論私の隊はシビリアン(非戦斗員)を殺したりしていないし、家を焼いたりもしていない。
 「私の小隊があそこを占領したのは、一日だけです。アメリカ軍がいる所を、山の上から攻めてきて占領したのです。だが次の日には取り返されてしまいました。その時は家も建っていたし、その傍にアメリカの歩哨も立っていました。だからその家が焼かれたとしたら、それはアメリカ兵のしたことでしょう。」
と私は一斉に向けられている群衆の視線に向かって答え、我ながらまずい弁解だなと思った。
 「後藤さん、あなたのあとにも日本兵が何度も来たんでしょう。あなたでなくて、その人たちがやったのではありませんか。」
と通訳のリタさん(日本人の加藤さんとフィリビン女性の間に生まれた二世。元ゲリラの中隊長の奥さん)が、今度は通訳の立場を離れて、私に反間してきた。彼女もフィリピン人だったんだなという思いが、胸をかすめた。
 私は、それでも嘘を言って言いのがれる気がしなかったので、
 「いいえ、占領できたのは一回だけです。あとに日本兵は来ていません。」
と答えたから、立場がますます悪くなっていった。
 その頃、同行した収集団の人たちはジープの所に帰りはじめていた。そして私にも、今日は校長さんに挨拶するために寄ったのだから、「行こう」と言って促した。窮地に追い込まれている私を救ってやろうという気らしい。しかし、このままでは私が犯人にされてしまう。それでアメリカ兵から取り返された時も、家がちゃんとあったことを、繰り返し述べた。
 リタさんもようやく事情をのみこんだらしく、戦争中あの付近にほかに家がなかったかどうか、その男に聞いてくれた。そして南の方に百米位離れて今崖になっている所に焼けずに残った家が一軒あったことを聞き出してくれた。
 「それではその家だったかも知れません。とにかく家はあったんだから。」
と答えて、私を呼びつづけているジープの所へ降りていった。
 それから三日ほどして、再度キャンプ3を訪れた。その頃には、今の一軒屋でなく、崖のところが私達の戦場だったことが、私にもはっきりしてきていたので、そこにまっすぐ登っていった。先日のただならぬけはいから、そこに行くことに反対する意見もあったが、私は沢山戦死者の出た所だから、せめて慰霊だけでもしたいと申しでて、吉富氏(班長、もと大尉、熊本)、吉原氏(もと大尉、鹿児島)と私(もと見習士官)の三人、通訳とPC(警察軍の軍曹)を伴なって、雨の中をそこに登っていった。万一のことを考え、遺児の佐藤君(南陽市)と学生の大野君(アジア大)の二人は、キャンプ4の小学校に残して昼食の準備に当ってもらうことにした。そして先日の男があらわれたら厄介なので、今の一軒屋の前は通らず、まっすぐ崖の所をめざしていった。
 ところが何時の間に見付けたのだろうか、その男は私達のあとをつけてきていた。私はいろいろ地形を観察したが、一面甘藷畑になってまるで変わっているので、一軒屋のあった場所の見当がつかない。
 「この辺に一軒屋があったかどうか、あの男に聞いてくれ。」
と私は通訳に言って、三十米位から近寄らないでいるその男を指さした。通訳は留学生の奥君に代っていた。奥君は先日のいきさつを何も知らないから、「マノン(小父さん)」と呼びかけて近くに寄せ、一軒屋のありかを聞いてくれた。霧で峯が見えず、ブルドーザーで堀り崩し、水を引いたりして地形まで変わっているが、徐々に二十八年前のイメージと重なるものはあらわれて見えた。
 そこの畑の隅で我々は、内地から持っていった酒や米を供えて供養を行なった。班長の吉富氏は、生きている人に呼びかけるように諸霊に語りかけて追悼の言葉を述べた。終わってから、私はこぼした酒の残りを、まだ側に立ったままでいる今の一軒屋の主人にすすめた。男はこころよくその酒を受けた。彼の目からやっと燃えるような瞋恙のまなざしが消えていた。少なくとも私が犯人ではないということだけは、理解してくれたようであった。