モンテンルバの奇妙な死刑囚の名

 モンテンルパの刑務所の裏に、日本人戦死者の慰霊碑がある。そしてその前に、死刑に処せられた元日本兵の名を白ペンキで記した板の標札が建っている。二十人ばかりの名が片仮名で書いてある。
 その標札を読んでみると、どの一つも日本兵の名と思えるものがない。フィリピン人の名ともアメリカ人の名ともつかない、マケウとかモラトとかいった不思議な名前が書かれている。一つだけ名前のところがシヅエと書いたのがあり、これは日本名だが、しかし女性の名である。男の兵隊さんの名とは思えない。
 アメリカ人が聞き違えてこのような誤りを犯したのかと最初は思った。しかしそれにしても少し位の聞き違えで、こんなになるとは思えない名前ばかりだ。それでよくよく考えてみたが、これは受刑者がわざとでたらめな名を書き残したものと思われる。米兵が日本字が読めないのを幸いに、彼らは本名を偽って書き残したものであろう。
 収容所にいるころ、伊藤とか会田とか佐藤、渡辺などというありふれた姓の人が、よく一斉に呼び集められた。そういう姓をもつ人の中にフィリピン人を虐殺した犯人がいて、その首実験に連れてゆかれるのだという話だった。そして連れてゆかれたら最後、その中のだれかが犠牲になるということだった。つまりフィリピン人は、似たような顔付きの人がいると、こいつだと言って指さす。するとその人は早速裁判にかけられて絞首刑の宣告を受ける。弁護人なしの一方的軍事裁判だったようだ。彼らの中に一人でも真犯人がいたかどうかあやしいものである。後藤などという姓もありふれているので、いつか呼び出しがくるかとひやひやしていたことを思い出す。
 それとは別に、モンテンルバの死刑囚の建物に隣接してあった未決囚のキャンプに、私も一ヵ月近く入れられたことがある。二十一年の夏ごろだったろうか。眼鏡の一方をこわした私は、眼鏡なしには働けないから補給してほしいと、収容所長に申し出たことがあった。すると連れて行かれたのがその幕舎だった。近くに病院があり、そこで診察を受けさせるためであったが、いきなり未決囚のキャンプに連れてゆかれたので、労働拒否で裁判にでもかけられるのかと恐れたりもしたものである。
 未決囚の幕舎にくっついて、死刑囚の独房がいくつも並んで建てられていた。塀を回してあるので、姿は見えないが、声のとどく近さである。だが死刑囚たちは死んだように静まり返っていた。そんなある日、未決のキャンプで演芸会が催された。日本の歌の数々、尺八、笛などいろいろと披露された。そして最後に山下将軍の辞世の詩(補注)が朗詠された。…七度生まれ代わりて皇国に殉ぜん、というのが結びの句であったように記憶する。この詩が朗吟されると、それまで死んでいた死刑囚たちの独房から咆哮にちかいどよめきが一斉におこった。「もう一度やってくれエ」という沈痛な叫び声も聞こえた。
 彼らは聞いていたのだなという思いが、じいーんときて、胸をしめつけられるような思いがした。もはや彼らはこの世への未練を断ち切っているのだ。そして生まれかわった時にという思いが、山下将軍の詩に共感するのであったろう。うめきともわめきともつかない彼らのわいてくるような咆哮を私は二十七年ぶりに思い出していた。
 彼らを吊ったマンゴーの木は、刑務所の裏の斜面に今なお亭々とそびえている。山下将軍はロスパニオスのマンゴーの木で吊られ、彼らはモンテンルパの、同じマンゴーの木で吊られた。われわれ生還者の全部の責任を背負ったような形で、無実の身を、従容と死地に運んだのである。
 彼らはイトウ、サトウ、アイタ、ワタナベなどという、ありふれた姓をもった己れを憎んだであろう。そして現実には存在しそうもない虚偽の名を記しとどめて、この世を去っていったものであろう。私は日本に帰って来て、その標札の奇妙な名に思いをいたしているうち、そこに彼らの地鳴りにも似た、潮騒にも似た訴えが秘められていることにはじめて思いいたったのである。
 (補注)守谷正氏著『比島捕虜病院の記録』によれば、「吾七夕ビ生レテ誓ッチ興サン神州ヲ」が正しい。
 この七言律詩一、七言絶句一、短歌四からなる将軍辞世の作は、同著に明記されているしなお未決囚や死刑囚のキャンプについても、同著が詳しく正確である。