プログ山入りをあきらめる

 ルソン島には、未だに文化の灯から隔絶した地域がある。比島最高峯のプログ山(三千米弱)の東南から東側にかけての地域である。ここには人間を含めた動物の頭蓋骨に興味をもつ未開の首狩り族が住んでいる。数年前にもアメリカの生物学者が二人、この地区に入りこみ、首を狩られたという。ここは戦争末期の山下兵団の最後の集結地であり、われわれも終戦時にはそこにいたが、当時はこちらも武器をもっていたから、首狩り族など物ともしなかった。今はここにフィリピンの共産匪がたてこもり、最後の砦にしている。
 厚生省の計画書には、この地域の遺骨収集も記載されていた。そして我々の班(第五班)の我々の組(A組)がそこに入ることになっていた。それを見た時、私はこれは大変なことになったぞという気がした。そこに入れば匪賊か首狩り族の何れかに会うであろう。山ヒルの群棲する峠も越さなければならないし猛烈な勢いでおしよせてくる蜂の大群に襲われる危険性もある。蚤や南京虫も箒で掃くほどいる。
 ここに入れば、生命の安全率は五十%しかないなという気がした。遺骨収集に行って、自分が遺骨になって戻るおそれが多分にあった。しかし男が一旦参加を申し出た以上、危険だからといって取消すような女々しいことはできない。万一のことがあれば、二十八年間余計に生きたことを、もうけものだと思えばよいと思って出かけた。
 フィリピンに行って一週間たち二週間たつうちに、私は自分の考えの甘さに気づいた。戦争当時、栄養失調の体でも越せた山だから、食物に事欠かない今、年をとったからといっても同じ位には歩けるだろうと考えていたことが大きな誤りであった。当時重い装具を身につけて楽々と越した小山でも、汗みどろになって、漸くあえぎあえぎ登らなければならない。荷物は全部置いて写真機一つだけ持って行っても足ががくがくする。年令からくる衰えは、かくもひどいものかということを痛感させられた。これでは二千米の峠を二つも三つも越さなければならないプログ山入りに、ついてゆけるかどうか大いに疑問になった。
 熊本の吉富氏(班長)や鹿児島の吉原氏は、向うに行ってもプログ入りをあきらめず、私にどうするかと迫ってきた。二人とも私より高令である。彼らが行くのに私が断るわけにはゆかない。行きますよと答えはしたものの、足の弱さに大きな危惧の念はあった。
 その頃になって厚生省の伊藤氏は、プログ山を範囲に入れたことを後悔していた。若い伊藤氏はプログとはどういう所か調べずに単にそこに遺体が多いという理由だけで記入していたのだ。いよいよプログ入りの近づいた日、彼はプログに入れば、少なくとも四、五日は野宿を覚悟しなければならないが、それは天候不順な折でもあるので、無理だと主張して、ジープの通る所から日帰りできない遠くへは行ってくれるなと要望した。私も脚力に自信がないだけに、内心その意見に同感した。
 比島政府が我々につけてくれた警察軍(PC)の軍曹も、プログ入りに賛成しなかった。あとでバギオ市長の意見も聞いたが、市長も討伐軍を送ったあとでなければ、此処に入るのは無理だという意見であった。しかし吉富、吉原両氏の、この地区への執着は強く、最後には比島官憲の目を盗んで、三人だけで入ろうという話になっていた。
 ところが辛か不幸か、バギオから北ヘボントック街道を九十キロのダダに行って、はじめてカバヤンへの道の橋が落ちてジープは北から入れないことがわかった。とすると又一日がかりで南から迂回しなければ、その入口であるプログ西側峡谷に入れない。そしてこの時には我々に残されている日程も残り少なくなっていたので、さすがの二人もプログ入りをあきらめざるを得なくなった。
 カバヤン、ボゴド、シソンと四日がかりの収骨を終わってバギオのホテルに引きあげた十二月二日の真夜中、私は猛烈な腹痛に襲われた。四時間もの間、下痢と嘔吐が続き、どうしてもとまらないので、ジェネラル・ホスピタル(公立病院)に運ばれて治療を受け、注射を打ってもらった。そしてそれからの二日間殆んど一物もロにすることができず、眠り続けた。ココナツの水を飲みすぎたこともあったが、重なる疲労が病気の理由のように思われた。日程表からゆくと、このあたりはまだプログ山にいる頃であった。医者もいない未開の山中で、この腹痛に襲われていたら、とても助からなかっただろうが、これも出発前には全く予測していない出来事であった。
 フィリピンは戒厳令下にあって、零時から四時までは、外出禁止である。私が腹痛をおこしたのは、零時近かったので、医者の世話にならずに、何とか治めたいと思って、吉原耕作氏を呼んでもらった。吉原氏は指圧療法でたいていの病気をなおすと聞いていたからである。そして何度かその治療を受けたが、全然効き目がなかった。仕方なくホテルの人を起して、救急車を呼んでもらった。救急車だけは外出禁止の例外になるということであった。
 しかしいろいろ手間どり、吉富、吉原両氏から病院にかつぎこまれた時は、午前四時をまわっていた。病院では医師と看護婦が十人近くいて待っていた。緊急の連紹を受けて呼び集められたものであろう。簡単な診察をして女医さんが薬を買わせ、注射をしようとした時、私は 「アレルギー体質だから、注射液を半分にしてくれ」と要望した。しかしなかなか言葉が通じなくて弱った。薬代と治療代とあわせて四百円足らず、その安いことにまた驚いた。