酌めども尽きない酒

−ミイラの町カバヤンのことども−

 プログ山の東側は、前に記したように、未だに文化の灯が及ばない未開の地域である。
 ここに較べると、プログ山西側の峡谷、カバヤソ部落のあるあたりは、準未開地といってよいところであった。昭和二十年の十月下旬、われわれはプログ山東方から、このカバヤンに出て、そこから更に二,000mの山を越え、ボントック街道(バギオから北へ縦断する国道)に出、アメリカ軍に投降した。そのカバヤンに十二年前(一九六二年)、バス道路が切れた。そして一応文明の地の仲間入りをすることになったわけだが、しかし治安上の保障ができないということで、最近まで日本人が入り込むことは許されなかった。 昭和四十八年十二月、私どもは二十八年ぶりに、この地を訪れた。小学校を借りて二泊し、住民たちから協力と歓迎を受けた。案じていた反日感情は全く見られず、平地の人達よりも好意的であった。
 部落に着いて、町長に挨拶するため、入った役場(Municipal Hall)で、先ず我々の目を驚かしたのはミイラであった。数十休のミイラが三方に並べてあり、棺に入ったままのもあった。部落の前面に屏風のように切り立った二,000mの山があり、そこの岩窟から運んできたものという。われわれも米軍に投降する際、越していった山だが、当時はミイラがあることに気付かなかった。大きな石や岩の洞になっているところが昔の墓場で、そこに入れられた死体が、自然に乾いて五百年、千年経つうち、ミイラ化したものだと説明してくれた。多いのになると一つの岩窟に二十体、三十体のミイラが収まっているという。今は海外にも知られてヨーロッパ諸国、アメリカ、韓国などから見学にくるといって署名簿を見せ、我々にもサインを求めた。まだ数百体が山に置かれたままになっており、ミイラの展示館が欲しいという声が聞かれた。
 ミイラの棺は木製で、完全な舟の形をしていた。日本の古墳の石棺にも、舟を象ったものがあると聞いていたので、その共通点に関心がひかれた。しかもその棺は細部まで彫刻してあり、かなり精巧な造作であった。それから腰のあたりには、衣服の模様のしみついたミイラがあり、五百年も千年も前から、この地の人は衣類をまとっていたことがわかった。ここの住人は野蛮な裸族でなく、かなりな文化を大昔からもっていたものであろう。
 この地で、私につきっきりで世話をしてくれたのは、ベロン(Berong)という元米比軍の少尉であった。たどたどしい私の英語にももどかしがらず、すたすた足ばやに先導してくれる気の良い男であった。彼は私の小隊のあとを追いかけてプログ東側まで入った直接の敵であったことが、話しているうちにわかり、お互に顔を見合せた。年齢も階級も私と同じであった。二十八年も経つと、憎しみの感情が転じて、却って懐しさのようなものが湧くから不思議である。
 ところで小学校の上の台地に、水道の栓が露出されてあり、ここが我々の炊事場であった。傍に青年だけ十人位起居している一軒の家があった。彼らに兄弟かと聞くと、そうでないといい、学校の寄宿舎かと聞いても違うと答えた。あとでベロン氏に聞いて、そこがいわゆる「少年の家」であることがわかった。イゴロット族は年頃になると、男は「少年の家」に住み、女は「少女の家」に住む。一部屋だけの家に十人もの人が寝泊りできるのは、夜具がなくとも間に合せられる土地柄の故である。このあたりは戦時中から、一軒も家が殖えていないし、減ってもいないということであったが、限られた耕地しかない山村としては、人が殖えても家を殖やせないのも、致し方のない事と了解された。夜が明けると、妹か恋人か知らないが、少女たちが来て、少年たちの炊事の手伝いなどをしていた。
 小学校の前に、少し離れた所にトタンで囲いをした便所があった。便所があったといっても日本人には当り前に聞えようが、フィリピンでは、こんな山奥にまで便所ができたということは、大へんな変革である。戦時中は大きな都市の大きな家以外に便所はなかった。川につかって用を足したり、特定の森にして豚に食べさせたりしていた。そんな状態だから蝿が物凄く発生した。それが今度行ってみると、大きな家は水流式の便所(手桶に汲んだ水で裏の吸い込み溝に流しこむ)をもち、町や部落には共同便所も造られていて、蝿はほとんどいなくなっていた。
 カバヤンの小学校の便所は、深い溝の上に、十五p四方位の穴を穿った板の覆いがしてあるだけの簡単なものであった。大と小とを別々に足すということで、小の方は別に造られていた。我々はそういう仕方に馴れていないので、この便所には困った。−しかし考えてみると、年中暑い国で、これ以上に排便口を大きくすれば、必ず蝿が発生する。彼らとて不便でないわけではないだろうが、幼時から馴らされてきているものなのだろう。
 中共は革命によって蝿を絶滅させたというが、そういう言い方からすれば、フィリピンは独立によって蝿を駆逐したといってよいだろう。簡単なようで、国民の一人一人の努力と注意がなければできないことである。中国や日本などより、はるかに蝿の発生に適した条件下にある南の国で、蝿の発生を防ぐことは、並大抵なことではないものと思われた。
 最後の晩、我々は小学校の教室に蝋燭を灯して宴会をもった。鶏を二羽つぶし、ウィスキーも五本ほど用意した。我々の収骨の仕事に協力してくれた人や町の有力者などが集ってきた。
 アルコールが入ると、彼らは唄をうたい出した。日本の軍歌であった。「見よ東海の」からはじまって、ラバウルの唄、満洲の唄など、私どもの忘れてしまっている軍歌まで覚えていて、次から次へとうたった。年配の人だけでなく、三十代の先生や二十代の町長の息子なども、日本の軍歌をうたうのにはびっくりした。それからラブ・ソングだといって「ここに幸あれ」という歌謡曲を、日本語と英語でこもごも歌い、合唱もした。この唄はいまフィリピン全土で流行し、何処に行っても聞かれた。おかげで音痴の私も、フィリピンに行って日本の唄を一つ覚えることができたほどであった。
 五本のウィスキーは、一時間足らずでなくなった。すると参会者の町の評議員(カウンセラー)で、元ゲリラの軍曹であったという人が十ペソ紙幣(約四百円相当)を出して、現地酒を買わせた。−これが世にも不思議な、いくら飲んでも無くならない酒であった。二リットル入り位の甕に入っていて、材料は米だという。水をそそいで甕を数回ゆっくりまわすと酒ができ、三十分位して又同じ操作で、新しい酒ができた。繰返すこと三回、四回、九時まえ宴を閉じたが、その後でも何度も酒を造り出せたかも知れない。世にも稀有な代物というべきである。他の地に移ってから、我々はこういう酒があるかと聞いたが、無いし、知らないということであった。どうやらミイラとともに、カバヤン特有の産物らしく思えた。
 夜中になると、小学校の裏の薮で、クツワムシやコオロギがやかましく鳴き、日本の秋をしのばせた。そして緑色にうるむ群星がまことに美しかった。寝袋からぬけ出していって、私は何度かその風情に浸った。そしてひそかに、「花鳥風月」は、ここでは「花虫風星」と言い代えるべきだろうと思ったりした。