おわりに

 昨年の七月末から八月のはじめにかけて、九州に旅した。工23会の宮崎大会が青島の国民宿舎で行われるのを機に、結婚二十五年目の妻と共に、九州を一廻りするためであった。兵隊の時、門司から南方行きの船に乗ったが、その時以来、九州の土を踏んでいなかった。
 川崎港から、フェリーに乗って二十時間、東京から貴美侯部さんが一緒になった。乗船券の世話などをしてくれた落合さんは、出発間際に体調をこわして参加を取りやめてしまわれた。落合さんの車で会場に行く予定だったのが、バスにしなければならなくなったため、二十七日の総会にはやっと問にあう時刻に着いた。
 私は、総会行事のあとルソン島の遺骨収集時の模様をかいつまんで話した。そして私の方を向いている五、六十の顔を見たが、知っている顔がほとんどない。川越さん、大塚さん、長田さんなどの顔はすぐわかったが、多くは知らぬ顔ばかりである。どうも勝手が違うという気がしたが、それも無理はなかった。三十年の問に、風貌から人相まで全く変ってしまった人が多かったのだ。宴会に入って盃のやりとりをしているうち、往年の顔が浮び出てきたが、それより先に声に聞き覚えがあることに気づいて、おもしろいと思った。声はどうやらあまり年をとらないものであるらしい。
 本書の”国旗を返せ”のところに書いた、当番兵の故中村一等兵の生家を、落合さんの車で訪ねるのも当初の予定であったが、果せなかった。帰国したら何をおいても、戦死した部下の家を訪ねようと思ったものであったが、三十年経った今もその一つさえ果せずにいるわけである。今更訪ねても行かれた方で迷惑かも知れないが、しかし故人が我々の胸の中に生きていることを、肉親に知ってもらうことは、意味のあることに思える。本書がそういう役目を、私に代って果してくれれば幸いだと思う。
 本書は気ままに書き流した体験記であるが、事実は伸ばさず曲げず書いた積りである。しかし動乱の中の認識には誤りもあろうし、三十年の年月が招いた記憶違いもあろう。本当はそうではなかったのだというご指摘がいただけたら、たいへんありがたいことだと思っている。
 本書に記しとどめておきたい事件や思い出は、他にも多くあるように思う。人物についても名を挙げ語るに足る数は、既に語った人に倍するものがあるように思える。何れも私の稚筆がもたらした疎漏の故と言わなければならないだろう。
 なお本書の装釘は、東京の高山とっこさんをわずらわした。お礼申しあげたい。

(50・4・30)

メモ

− 再版に際して −

▽ 「区隊長はW中尉であった」のW中尉は和田中尉(のち大尉)であったことが、戸田和男氏(山形高校柔道部の先輩で、文中に戸田の名で出てくる人。現在は信越化学の重役)の便りでわかりましたし宮崎少尉は後で工兵学校の全職員からも総スカンをくい、終戦時には逃げるようにして姿を隠したことも同氏の便りでわかりました。(6P)
▽ 江尻丸の屯数と遭難時刻について……厚生省の相井秋久氏(小野田さん救出の隊長)から「日本郵船戦時船史」のコピーが送ってきまして、江尻丸は六九六八・二二屯が正確なトン数であることがわかりました。そして遭難時刻は昭和十九年十月十日十三時三十五分となっており、二時十分で時計が止っていたという私の記憶が正しかったことが判明しました。「江尻丸は七千七百トンで、最大速力は七ノットきり出ず、船団のブレーキになっているそうだ」というのが、私の周辺でささやかれていた噂ですが最強速力は一三・一九ノットもある優秀貨物船だったこともわかりました。戦時中の噂はあてにならないものだということがわかります。『ルソンの霧』の石田徳氏の周辺では一万トン級の船という噂が流れていたものでしょうが、しかし遭難時刻を午前十時とするのは、完全な氏の記憶違いです。それはともかく、私が船上でうろうろしていた時間が三十分以上もあったことに今更驚いています。
 それから同資料に乗組員全員救助とあるのは、もちろん日本郵船の船員の事です。救助艇に乗った船員が、縋りつこうとする兵隊達を櫂の先で突きはなし、突きはなしして船員だけを救助していった嫌な光景が甦ってきます。(同じ資料が後に防衛大学の石崎正規氏からも送ってきました。)(9P)
▽ 同じく相井氏から送ってきたアラビア丸遭難の資料(死亡認定書)によると、遭難場所は「北緯十四度四分、東経一一九度五二分の海上」とあり、第一回目の魚雷が命中したのは、十八日七時十六分となっています。二度目は十二時二十八分とあります。そして救助者は、八紘丸と第一〇四哨戒艇(私たちが救助された通称海防艦)とで合せて約七百名、翌日駆逐艦「竹」に発見救助されたもの約一五〇名となっていて、私が聞いていたのより少しく多い(八紘丸というのは艀(はしけ)のことかどうかはっきりしないが、艀だとすると双方合せて七百名も救助するのは無理で、水増しした数のように思えます。翌朝の救助者も我々が海軍から聞いたところでは約百名ということでした。こういうはっきりした数はそう忘れるものではないから間違いないと思います。書類で報告をする際は、自分たちの功績を語るために水増しすることがあったのではないか) 疑われるところです。
 それからアラビア丸の目的地は、われわれは昭南(シンガポール)と聞かされていましたが、この書類ではバキット経由、ミリーとなっていますし ミリーというのはボルネオ島の北部の港です。一旦ここで下船して、次の便で昭南を目ざすのであったろうか、それともここが目的地だったのか、はっきりしません。 (17P)
▽ 妙義の遭難について……同じく柏井氏から送っていただいた厚生省の資料は、死亡認定書のうつしですが、この記述は全くでたらめのようです。その幾つかを指摘しておきます。 (一)妙義は「丸」のつかない例外的な船であったが、同資料には「妙義丸」と記してあるし (ニ)二発の爆弾を受けたが、船は沈まず火災を起さなかったのに「大火災を起し損害甚大」「退船間もなく沈没した」と記している。 (三)爆撃を受けたのは早朝だったのに、十一月十四日十時五五分となっている。(十一月十四日という日にちまであやしい。私の記憶では中旬を過ぎていたような気がするが。) (四)生存者はさし向けられたボートで皆濡れずに退給したのに「力泳した者も多かった」と記している。】−−従って「四〇二〇屯」とあるトン数まで疑わしくなり、もっと確かな資料がなければ訂正する気がしません。(25P)
▽ 見習士官……幹部候補生が軍曹の階級章から曹長の階級章をつけるようになると、見習士官と呼ばれる。将校勤務を命ぜられて日本軍では将校の扱いを受ける。少尉と准尉の問に位するわけだが、しかし准尉が将校勤務を命ぜられている場合は、その方が上位者になるらしい。なお米軍には見習士官の制度はなく、准尉と訳されたため、戦後は下士官・兵の収容所に入れられました。(34P)
▽ 永田氏について……このように書くと、永田准尉という人は、がりがり亡者のように聞えようが、事実はそうではない。物柔かで落付いており、苦境や逆境にもたじろがないという点で、私も教えられるところの大きかった人物です。その時の編制替えに、永田氏の意向が加わっていないこともあとでわかりました。 本書はところどころスポットライトをあててうつし出しただけなので、全体として適正を欠くうらみが生起することを避けがたい。とはいえ、今読み返してみて、この部分の記述から、永田氏の人間像の全般について誤解が生れるおそれがあることに気づいたので、一言弁明しておきたい。
 永田氏は不思議な人物で、そこにいるだけで、戦場の殺伐な気分も柔らいでくる独特の雰囲気をもっていました。食物もなく敵に追われる毎日がつづいて、みな幽鬼の如く 痩せ細った中においても、永田氏の口辺から笑みの消えることはありませんでした。その柔和さが部下をひきつける要素になったことも否めません。私と生死を共にした部下達も、彼のもとに行けば、私のことなど一顧もしなくなるだろうというコンプレックスが、その頃の私の心情を占めていたようです。だからこそ、何か一矢をむくいる手だてはと腐心したわけで、普通の場合は、相手がたとい一階級や二階綾上の人でも、理不尽なことには間をおかず酬いるのが私の仕方でありました。(100P)
▽ 工23会の名簿に「竹迫」の名が載っていないので、私の記憶違いかと思っていましたが、領木又男氏からの便りで、間違いないことがわかりました。領木氏の故郷の隣り村の出身ということなので、ついでの折、ご遺族に一本を贈呈してくれるよう、領木氏に托しました。 (144P)
▽ 緒方明氏に本を送ったところ、数ヶ月経ってから、便りが来ましたし私の本を読んで、十年ぶりに日本の落合さんや私に手紙を書く気になったと書いてありますが、本当は二十数年ぶりではないかと思います。ロスアンゼルスでたいへん元気にしているようで、二度目の便りには、人生はギャンブルだとも、いつか好きな日本に行って暮したいとも書いてありました。
 なお緒方氏と同じ二世の日本兵で、アメリカ軍籍の兄弟とフィリピンで再会した例もあると、清水直子さんが教えてくれました。(148P)
▽ 小野作松氏に本を送り、「連隊長からぶん殴られる」のところを見れば思い出すのではないかと書き添えておいたところ、半年位経って息子さんの代筆した手紙が着きました。小野氏は文盲で、何の本か見当がつかなかったらしいのだが、息子さんが見つけて読んできかせたところ、よく当時を覚えていて「貴重な品ありがとうございました。少尉殿のご健勝をお祈りします」と言っておりますと書いてありました。昔ながらの律気な小野氏の物言いに苦笑させられましたが、代筆の返事も珍しいので書き記しておきます。(155P)
▽ 遺骨収集団では、私は第五班に所属しましたが編制は次の通りでした。
 (厚生省)伊藤義昭
 (戦 友)吉富孝信、中里範清、一戸平次郎、慶野三代吉、吉原耕作、光安勇、吉田芳雄、中山宏明、後藤利雄
 (遺 児)佐藤健児、中川明和
 (学 生)大野俊雄、清水悦朗
 なお団長は厚生省の相井秋久氏、戦友団の代表は河合重雄氏でした。(163P)
▽ 留学生の奥君ほか‥…・奥仁志氏の息子さんです。奥氏は元二等兵で日比親善のため私財を投じて献身し、バギオの名誉市民に推されている由。旧日本軍人でフィリピソの都市の名誉市民であるのは、この人くらいのものでしょう。息子さんも尊大なところがなく、さわやかな感じの青年でした。奥君のあとは橋本君という九州からの留学生がわれわれの通訳になりましたしPCはカガチャンという名の陽気な軍曹、ガソリンの積んである車の中で平気で煙草を吸うのにはまいりました。(170P)
▽ キャンプ4の小学校……校長さんはデスポ氏で人格者である。我々の仕事に色々協力してくれたがキャンプ3の校長さんのようにがめつく報酬を要求することもしませんでした。自分で作ったコーヒーとバナナを馳走してくれたが、たいへん味がよく、我々は両三度ここに世話になりました。(左写真)
▽ ここに載せたミイラの写真は、群馬児の吉田芳雄氏が提供してくれたものです。私のカメラは、ボントツク街道56K地点(米軍に収容された地点)の傍の崖を降りてゆくとき転倒して凹ませてしまい、その後も撮り続けたが全然映っておりませんでした。吉田氏は心臓がわるく厚生省の選からもはずされかかったのを、強引にねばって参加した人。トリニダットの収骨の際、心筋梗塞をおこし冷たくなりかかったが、間もなく元気を快復した警察官で、元盟兵団の歩兵隊員。(181P)
▽ 山下奉文大将が処刑されたのは、昭和二十一年二月二十三日午前三時五分、昭和五十一年で満三十年になります。その三十年祭を期して『山下奉文の追憶』という冊子がご子息の山下九三夫氏によって刊行され、著者にも落合氏を通じて一部寄贈されてきました。ひもといて処刑直前の「最後の言葉」などを読んでゆくうち、西郷南洲の遺訓と共通するものが極めて濃厚であることに気づきました。南洲がルソン島で戦っていたら、山下大将と同じような最期を迎えたのではないでしょうか。両者の共通点のよってきたる所を、私としても、もっとつっこんで考えてみたいと思っています。
 なお同書には「山下将軍受刑の地」と題する私の短歌五首が転載されていました。拙ない歌が、こういうおもだたしいものに載ったのは始めての事で、面映ゆさを禁じ得ないが、それがいささかなりとも三十年祭の慰霊に役立ち得たとすれば、たいへん嬉しいことだと思います。(185P)
▽ イトゴンのアトック金山の対岸に二世のカトーさんが住んでいます。ここの鉱道を陸軍病院が使用し、死者の埋葬地にカトーさんの畑を提供したという。そのように日本軍に協力した二世の男子は大ていスパイの嫌疑でゲリラに迫害され、死亡しています。加藤さんが無事だったのは、人柄がよく日本語を全然話せなかったことが幸いしたものと思います。その四女ジェーン・カトーは明るい女学生でつるはしを振って我々の仕事に協力してくれました。今はマニラの医科大学生である。
 なおアンタモック鉱山もバラトック鉱山も陸軍病院が使用しており、その埋葬地にも千を越す死者が眠っている筈だが、つきとめることができませんでした。(188P)
▽ トリニダットのバリクタン家の庭先で撮したもの。バリクタン氏の奥さんが日系二世。ここでも焼骨をしたが、残骨と灰を埋めたところに後で慰霊碑が建てられました。奥さんの兄の一人が、スパイ容疑でゲリラから、目をくりぬかれ鼻をそがれ、ロを裂かれるという仕打ちを受けたので、娘さん達が父と長兄に対して、米軍上陸とともにそれに降ることをすすめたが聞き入れず、自爆して果てたという。われわれにはじめて会った日、三人の姉妹は日本語が話せないのが残念ですと言って涙を流しました。
 ゲリラと言えば、一般のフィリピン人にとっても、日本軍よりも恐れたのはゲリラであったと聞いて意外な気がしました。それを私達に話してくれたのは、ポゴトのデウォス氏という議員さんでした。スパイの嫌疑を受けると、右のような残忍な処刑を受けるので、日本兵の姿を見れば、スパイと思われないために、真先に隠れたのだというのでした。(グラビア4P)
△ リンガエン湾南岸にスワルという町があり、そこから南西に数十キロ入った山中にシアシオという部落があります。旭兵団捜索連隊(久保田支隊・約千五百名)の敗走の入口にあたります。そこで十柱ほどの遺骨を収集しましたが、その時のもの。私のうしろは部落の長老で、元バリオ・キャプテン。彼が私に話したことで、忘れられない言葉があります。それは、我々が先祖がどこから来たかを考え、話題にする際、結局日本か中国あたりから来たものだろうということに落ちつく。にも拘らず旧日本兵は我々をつかまえては殴ったり蹴ったりした。我々を仲間と見ないで、どうしてそのような仕打ちをしたのか解せないことであった − 私は旧軍批判の核心をつく言葉と思って、返答に窮しました。(右写真)
▽ 本書の写真は、落合秀正氏、平田耕造氏、吉原耕作氏、吉田芳雄氏、佐藤健児氏、平柳寿子氏(もと従軍看護婦)などから提供していただいたものが多い。清水直子さん(同)からもいろいろ資料を提供していただきました。感謝いたします。
▽ 本書についてお気づきになったことは、、何なりとご指摘ください。なお版を重ねることがあれば、それを資料にして訂正してゆきたいと思います。重ねてお願い致します。

(一九七六・四・一五)