阿古屋の松の写ってない万松寺の写真

阿古屋(あこや)の松


 平家物語巻二に「阿古屋之松」というくだりがある。鹿が谷の陰謀が露見して、流罪になった大納言成親(なりちか)卿とその椅子である丹波の少将成経(なりつね)にまつわる話である。
 成親の配所は最初備前の国の児島であったのを、港が近いという理由で、同国の有木(ありき)(現在は岡山県都窪郡吉備町に編入)に移される。一方、成経の配所は備中の国の瀬尾(都窪郡妹尾町)である。この事を耳にした成経が、自分の居所から有木までの距離を尋ねると、警護の者が十二、三日かかると答えた。成経ははらはらと涙を流して、かつて藤原実方が陸奥(みちのく)の阿古屋の松のありかを尋ねた時には出羽国は陸奥国から別れていたがもとは一国であった。備前と備中ももとは一国であったから、十二、三日もかかるはずがない。これはきっと父の居所を知らせまいと思ってわざとでたらめを言っているに違いないと思い、父の事は何も尋ねなかったというのが、その段のあらすじである。その阿古屋の松に関する部分を引用すれば次の通りである。

 又あづまに聞ゆる出羽(では)、陸奥(みちのく)両国も、昔は六十六郡が一国にてありけるを、其(その)時十二郡をさきわかつて、出羽国とはたてられたり。されば実方中将、奥州へながされたりける時、此国の名所(めいしよ)にあこやの松と云所を見ばやとて、国のうちを尋(たづね)ありきけるが、尋(たづね)かねて帰りける道に、老翁の一人逢(あひ)たりければ、「やや、御辺(ごへん)はふるい人とこそ見奉れ。当国の名所にあこやの松と云所やしりたる」ととふに、「またく当国のうちには候はず。出羽国にや候らん」「さては御辺(ごへん)しらざりけり。
 世はすゑになつて、名所をもはやよびうしなひたるにこそ」とて、むなしく過んとしければ、老翁中将の袖をひかへて、「あはれ君は
  みちのくのあこ屋の松に木がくれていづべき月のいでもやらぬか
 といふ歌の心をもつて、当国の名所あこ屋の松とは仰(おほせ)られ候か、それは両国が一国なりし時読侍る歌也。十二郡をさきわかつて後は、出羽国にや候らん」と申(し)ければ、さらばとて、実方中将も出羽国にこえてこそ、あこ屋の松をば見たりけれ。
 なお平家物語の成立の時期は鎌倉時代初頭の建久以後承久二(一二二〇)年以前とする説が有力であるが、制作の期間は平安朝末期にもまたがるものとみてよいかもしれない。
 同じく鎌倉時代の初期、建暦二(一二一二)年から建保三(一二二五)年の間に成ると言われる古事談にも同趣の話が次のようにある。
 実方経二廻奥州一之間。為レ見二歌枕一毎日出行。或日アコヤノ松見ントテ欲レ出之処。国人申云。アコヤノ松卜申所コソ国中二候ハネト中之時。老翁一人進出中云。君ハイヅベキ月のイデヤラメカナ 此哥ミチノクノアコヤノ松ニコカクレテ 卜申古歌ヲ思食テ被二仰下一候歟。然ハ件歌ハ出羽陸奥未レ堺之時所レ読之歌也。被レ堺二両国一之後者。件松出羽国方二罷成候也卜申ケリ。
 謡曲「阿古屋松」は、この説話を敷術したもので、シテは里の老人(塩釜の明神の化身)、ワキは藤原の実方、ワキツレが従者という人物構成である。実方にあこやの松のありかを教えた老翁は、実は塩釜明神の化身であったという点を除けば、筋は前二書と同じである。
 さてこの「みちのくのあこやの松」の歌であるが、平家や古事談に語られている通りとすれば、和銅五(七一二)年九月二十三日、出羽国建置以前の作ということになろう。陸奥の十二郡と越の国の先端の部分を割いて、新たに出羽国(現在の山形県、秋田県の全部)を建てたのは、古事記の成った年の和銅五年であるからである。もしそうならば、これは万葉集に落ちこぼれた上代の歌ということになり、俄然重味を増してくることになるが、しかし平家や謡曲の研究家たちが指摘するように疑わしくその可能性はほとんどない。 万葉集の東歌も、福島県、宮城県の線までは例歌があるが、山形県、岩手県、秋田県、青森県の歌は皆無である。万葉集古義は、東歌の未勘国歌にある。
 三四七九 赤見山草根刈りそけ合はすがへあらそふ妹しあやにかなしも
 について「安可見夜麻(アカミヤマ)は、山名なるべし。其山は、末考(ダヘ)得ず。和名抄に、出羽国飽海(阿久三(アクミ))郡飽海郷、とあれば、もとは其地にて飽海山なるべきか。(カとクとは親通ヘリ)。されどこれは、例の推量のみなり。猶よく尋べし」と指摘したが、この説はその後支持されていない。栃木県佐野市の西北方に赤見山という山があり(山麓に赤見町がある)、この方は音韻の変化もなく、そのままあてはまるので、東歌のアカミヤマと見るのが定説化しつつあるからである。

 この事実は奈良時代における山形県は、文化的に未開地に属していたことを物語るようで、そこにとびはなれて旧い和銅五年以前の歌を認めようとするのは、なんとしても無理であるように思われる。したがって出羽国の歌枕を詠んだ歌としては、「最上川のぼればくだる稲舟のいなにはあらずこの月ばかり」という、古今集の「みちのく歌」を最も古い歌とすべきであろう。ただ古今集時代にあっては、最上川は出羽国所属の川であるのに(源流の部分からすべて出羽国に発している。その点「みちのくより出でて」とする『奥の細道』の記述も誤っている。最上川は一県一大河の珍しい例に属する)、みちのく歌に含めている点からすれば、平安前期あたりにあっては、出羽を陸奥の一部とする見方が未だ存していたといえそうに思う。
 その事と関連して、古典文学大系『謡曲集』の頭注者は、阿古屋の松について、「山形市西南郊千歳山の松がそれという。実方の頃から歌枕だったかどうかは疑わしい」といっている。阿古屋の松がいつ頃から歌枕になったかの検討は後まわしにして、次に御伽草子「小町草紙」を見ておきたい。
  日数つもればみちのくの、しのぶの里に程近し。都をば、霞と共に出(で)しかど、けふ白川の関にも著きにけり。……わたりしてゆきみの里の程近し。はなかの桜たけくまの、松の木立もみきと聞く、あこやの松やあねはの松人ならば、都の旅に誘ふべきと、よみし歌の枕をせめて、筆にうつしても、見ぼやと思ひし言の葉の、今は目に見ることのうれしけれども、いたづらに、歌枕、よむとても、誰か小町が歌とて、もてあそぶ人もなし。
 この御伽草子によると、小町の時代からあこやの松が歌枕だったことになるが、もちろんこれは信用できない。完全な作り話であるが、ただこの時代になると武隈の三木(みき)の松や柿歯(あねば)の松と並ぶ歌枕になっていることは知られる。
 それにしても困るのは、「あこや」に付された「羽前国(山形県)南村山郡(山形市の東南で陸前との国境)にあった山という」(古典大系「小町草紙」頭注)のごとき注が存在することである。「あこや」が千歳山の旧名であったという説はあることはあるが、その山が今はなくなったような記し方は困る。千歳山は山形市の東南に市街地に近接して現存する。市の中央部から、三キロと離れていない地点にある小さな松山で、けっして宮城県との国境にあるのではない。謡曲「阿古屋之松」の作者は、あこやの松の所から塩釜が遠望できるように記しているが、昔のことゆえそれは許そう(奥羽山脈にさえぎられて、とても見えない)。しかし現代の学者が中世人と同じ誤りを犯してはならない。その点、近松浄瑠璃「出世景清」の補注「阿古屋の松は山形市の東南、千歳山の名木」は正確であると言えよう。

2
 平家物語の異本とも言われ、鎌倉時代の中期から末期にかけて成立したと見られる源平盛衰記には、実方中将がどうしてみちのくに流されたかの事情も含めて、記述は次の如く詳細である。
 又陸奥。出羽。両国是モ一ナリケルヲ。二箇国二分レタリ。一条院御宇。大納言行成藤原孝子ノ未殿上人ニテオハシマシケル時。参内ノ折節。実方中将藤定時子も参会シテ。小台盤所二著座シタリケルガ。
 日比ノ意趣ヲハ知ズ。実方筍ヲ取直テ。云事モナク。行成ノ冠ヲ打落。小庭二抛捨タリケレバ、モトヾリアラハニナシテケリ。殿上階下目ヲ驚シテ。ナニト云報アラント思ケルニ。行成騒ガズ。
 閑々卜主殿司ヲ召テ。冠打キテ。殊二袖掻合。実方ヲ敬シテ云ケルハ。イカナル事ニカ侍ラン。
 忽ニカホドノ乱罰二預ルベキ意趣覚エズ。且ハ大内ノ出仕也。且ハ傍若無人也。ソノ故ヲ承テ。
 報答後ノ事ニヤ侍ルベカラント。事ウルサクイハレタリケレバ。実方シラケテ立ニケリ。
 実方三年ノ間名所々々ヲ注シケルニ。阿古野ノ松ゾナカリケル。正ク陸奥国ニコソ有卜聞シカト
 テ。此彼男女二尋問ケレ共。教ル人モナク。知クル者モナカリケリ。尋佗テヤスラヒ行ケル程二
 道二一人ノ老翁アヘリ。実方ヲ見テ云ケルハ。御辺ハ思スル人ニコソオハスレ。何事ヲカ歎給卜
 間。アコヤノ松ヲ尋兼タリト答ケレバ。老翁聞テ。最情ゾ侍ル。是ヤコノ。
   ミチノクノアコヤノ松ノ木高キニ出ベキ月ノ出ヤラヌ哉
 卜云事侍り。此事ヲ思出ツ、。都ヨリ遥々卜尋下り給ヘルニヤトイヘバ。実方サニコソト云。翁日陸奥出羽一国ニテ候シ時コソ。陸奥国トハ申タレ共。両国二分レテ後ハ。出羽二侍也。彼国ニオハシマシテ尋給へト申ケレバ。即出羽二越テ。阿古野ノ松ヲモ見タリケリ。彼老翁卜云ケルハ。
 塩竃大明神トゾ聞エシ。加様二名所ヲバ注シテ進セタレ共。赦免ハナカリケリ。(史籍集覧本「参考源平盛衰記」による。なお濁点を補った。)
 これは平家物語と古事談二及び十訓抄下、第八「可堪忍干諸事事」にある説話を、織り交ぜた文とも見られるが、歌は平家のそれと若干相違し、「歌枕注シテ進ヨ」のところは、「歌枕見テマイレトテ被レ任二陸奥守ことある古事談や「哥枕見て参れとて陸奥国にながしっかはされける」とある十訓抄の記述と若干相違する。
 実方と行成とは清少納言という女性をはさんで三角関係がおこり、冷たい仲になったと想像する学者もいる。またある年の桜がりの際、雨が降り出したので、皆雨やどりのため、花のもとを去ったが、実万一人は「桜がり雨は降りきぬ同じくはぬるとも花のかげに隠れむ」(拾遺集・春・よみ人知らず)という古歌を詠じて、木の下を去らなかった。この話が主上に奏せられた際、行成が「歌はおもしろし。実方は烏薪(をこ)なり」と言ったのを、実方が恨んだという詰もある(撰集抄八)。直接の原因はその日の「口論」(古事談)にあったとしても、両人の間にいろいろと確執のあったことは確かなようで、それが冠事件をひき起こし、実方がみちのくへ流されたものと見られる。
 日本紀略や権記などによると、実方の陸奥守が決まったのは、長徳元年正月十一日の県召(あがためし)てであった。そして赴任の奏上は同年九月廿七日に行われた。
 九月廿七日、庚午。中略 今日陸奥守実方朝臣奏ス二赴任之由ヲ於テニ殿上一給ス二酒肴ヲ一給スレ禄ヲ、叙二正四位下ニ一為ニ二重キ喪ノ者ニ給ス一精進の肴ヲ(日本紀略)
 右の文章だけから見ると官位も昇進し、酒肴の設けもあって栄転のようである。
 しかし事実はそうでなかった。陸奥守も正規の守でなく、権守であった(後述)。従四位上から正四位下への昇任も、実際に赴任すればという条件づきのもので、彼をみちのくへ追いやるための肴であったようである。
 実方は先帝や先々帝にも愛されていたし、左大臣藤原師声の孫という家系のよさも加わって、将来の上達部(かんだちめ)は約束されていたようなものである。それが地方官として都落ちさせられるのであるか

ら、栄進であろうわけがない。一たび地方に沈めば、浮上することは容易なわざではできない。そう思えばこそ、彼は赴任を九か月余も引きのばしておいたのであった。そして朝廷から催促を受けて、やっと腰をあげたのであった。
 史書には、実方を陸奥守と記し、権守(権は仮の意)と記したものはない。しかし事実は権守であったことが、彼のあとを慕って陸奥へ降った源重之の家集から知られる。
   みちの国の権守腹々のをのこゞ女に裳着せかうぶりせさせ、又袴着せなどするに、かはらけ取れとあり。母君失せてのことなり
 色々に許多千年の見ゆる哉小松が原にたづや群れ居る
    かへし
 古を今日にあらするものならば独りは千代を思はぎらまし
 とあり、この「権守」が実方であることは、書陵部本の実方中将集(戊)に、
   みちのくにゝて、きたのかたうせ給てのち、つつぎみに、はかまきせ絵て
  いにしへをけふにあはするものならばひとりはちよをいのらざらまし
 とあるのが、「かへし」歌と一致するところから知られる。重之集には「みちの国の守さねあきら」なる人物が出てきて、重之と歌の贈答をしているが、この人が正式の守であったようである。なお「みちの国の守せきうぢ」という人の名も記してあるが、これは「さねあきら」の次の国守であったかもしれない。
 当時の遠島の仕方を見ると、権官にして、地方に追いやる方法を取ったことは、間もなく長徳二(九九六)年に道長のために追放された藤原伊周が、内大臣から太宰権帥(ごんのそち)におとされた事実からも知られるところである。長徳元年はまだ道隆の関白時代で、実方追放をも道長がやったとは言えないが、やがてはじまる追放のさきがけになったという事実は否めない。
 ところで源重之という人物だが、三十六歌仙の一人である。実方は中古歌仙三十六人の中に列するが、重之は人麿や貫之などと名を並べる三十六歌仙の一人である。その人が、
    実方の君のもとに、みちの国へ行くに、いつしか浜名の橋を渡らむとてくるに、
    早う焼けにければ
  水の上の浜名の橋も焼にけり打けつ波や寄こざりけむ
 の歌で知られるように、実方のあとを追って陸奥へ降るのである。そして二人とも再び京に帰ることなく、みちのくに果ててしまう。二人の友情はいったいどんなものであったのだろうか。家集を見た限りでは、それを知ることができない。特に実方は、重之の名を一度も記していない。それを見ると憧れていたのは、重之の方だけで、実方はありがた迷惑だったようにも思える。
 だが逆の見方をすれば、そこに実方の重之に対する厚い友情が隠されているのではないかと思える。将来のある重之を、流人の自分と関係づけることで傷つけまいとする、実方の温かい心情が感じとれるように思えるのである。

3
 実方は、左近少将、右馬頭を経て、正暦二(九九一)年九月、右近中将にすすみ、同四年一月従四位上に叙せられ、同五年九月左近中将に転じた。まずは順当な昇進と言ってよく、今一歩で公卿(上達部)の仲間入りできる地位にまできていた。それが陸奥権守に転ぜられたのである。
 陸奥国は、大国であるとはいえ、守は従五位上相当官である。四位の実方の任すべき職席ではない。しかも権守という不名誉な職席につかせられたのであるから、その心中を思いやるべきであろう。正四位下への昇任くらいでは、とうてい拭いきれない不満と鬱悶があったであろうと想いやられる。
 当時の貴族が、官位の昇進にいかに執心したかを、大鏡と栄華物語から一例ずつ引いてみよう。まず大鏡の例だが、太政大臣藤原為光の長男誠信(さねのぶ)が、道長の謀略で弟の斉信(ただのぶ)に中納言を越されたため、食物も取らず、うつ伏しっづけているうち、病いづいて七日目には死んでしまった。そして死後の有様を見ると、握っていた指が、あまりに強くて、上に突き通っていたというのである。次に同じ道長によって内大臣から太宰権帥に降等された藤原伊周は、御封などを大臣なみに復権されても、鬱々と楽しまず三十七歳の若さで悶死してしまうさまが栄華物語に出ている。実方は直情径行ではあるが、どちらかというと楽天的で、右の二者ほどは強い衝撃は受けなかったと思われるが、しかし陸奥赴任の時期をながながと引きのばしたりしていることからみて、心情のほどはしのばれるものがある。
 一たび権力の座から追放されれば、再び元の地位に戻ることはむずかしい。そのことは歴史が証し、現実が証することであった。したがって追放者に対しては、冷たい目を向けて疎外する − そうなるのもまたやむを得ないことであった。
 そういうおちぶれた失意の実方を訪ねて、重之はみちのくに下ってゆく。友あり、遠方より来たるとは、まさしくこのような事例をいうのであろう。実方としても楽しくないはずはない。だが実方は、重之の名を一度も家集に記さなかった。もっとも、このところの本文は、西本願寺本重之集では、
   さねかたの君のともにみちのくに、くだるに、いつしかはまなのはしわたらんと
    おもふに、はやくはしはやけにけり
  みづのうへのはまなのはしもやけにけりうちけつなみやよりこざりけむ
 とあり、これによれば、重之は実方の伴として同行したことになるが、それならなおつきあいは長いわけで、その名まえを記すことがたびたびあってもよさそうに思われる。なのに重之との贈答歌さえもわざと独詠歌のように装って記し、その名を出さないのである。一方重之の方もみちのくに降ってからは、実方の名を出さなくなる。官職名で記すことはあっても、名までを記さない。これはいったい何を意味するのであろうか。
 一つの考え方としては、憚るものがあって、そうせざるを得なかったのだと見ることができよう。そしてもう一つの考え方としては、− おそらくこれが真実のような気がするのだが −両者ともお互いをかばいあっての結果と見ることができよう。実方としては、流人の自分と関係づけることで、重之の将来を駄目にしたくなかったのであろうし、一方重之としては、実方が風流を楽しむような心情にないことを、何も記さぬことによって、中央に訴えたかったのではないだろうか。名誉も地位も捨てて、みちのくへ下ったと見られる重之にも、なお

    又春つかさめしを思ひやる
  春ごとに忘られにける埋木は花の都を思ひこそやれ
 と晴れて京にかえる一縷の気持は残っていたが、それは自分一人を思う気持ではなかったであろう。実方になり代って、その気持を代弁して詠んだのが右の歌ではなかったかとも思えるのである。
 そういった目で見てゆくと、詞書なしに記す実方朝臣集(乙本) の、
  きみこずはしでの山にぞほとゝぎすしばしなこそのせきはこえまし
 の一首は、重之に対する実方の強烈な感謝の念をもり込んだ歌とも考えられる。一首の表の意味は「貴方が来ないならば、ほととぎすは、来てはならないという勿来の関を越えて、しばし死出の山へと出かけることもしたろうに(あなたが来てくれたおかげで、死出の山へ行かずに済んだ)」と考えられるが、ほととぎすに実方自身を托していることはいうまでもなかろう。陸奥権守の職名を着せられているだけに、陸奥から外に出られずにいる実方は、ていのよい幽閉の身で、勝手に国外に出たりはできない。それをあえてすれば殺されるかもしれない。そういう暴挙も、貴方が来てくれなかったならば、やっていたかもしれない − これほどの感動を伝える相手は、重之をおいてなかったのではないだろうか。
 陸奥には正規の守も介もいて、実方は権守であったから、政治向きの仕事はしなくともよかったと考えられる。というより政治には手を出せなかったと見てよいだろう。したがって源平盛衰記にいうように、歌枕を注して奏上することが彼に与えられていた唯一の仕事だったように考えられる。そしてその歌枕の調査には、重之も同行することが多かったであろう。裏返して言えば、重之の行っているところには、実方も訪れている場合が多いと見てよいだろう。とすると重之が足を踏み入れている出羽国には、実方もいっしょに行っている可能性が強いと考えてよいように思われる。

  もがみがはおちそふたきのしらいとは山のまゆよりくるにぎりける
  このもがみがはいみじき所なり、よに1ずおもしろきところなればすぎがたし
  もがみがはたきのしらいとくる人の心よらぬはあらじとぞおもふ
                              (西本願寺本重之集)

 は、最上峡の白糸の滝を詠んだ歌であるが、左注の文意から見て、重之が実見していることに疑いがない。最上川を舟でくだり、最上峡を経て、河口南岸の袖の清まで行ったのではないかと思われるが、最上川も袖の浦も都に聞えた歌枕である。この旅には、実方も同行していたものと見てよいのではなかろうか。かつて実方は、

    へいないし、返事をせぎりしかば、おほやけ事につけて、人のもとに侍しふみ
    をとりて、もじをきりいでゝ、つかはしゝ
    いせをのやあまと我身はなりぬらんそでのうらなるなみたかこへぼ

 と、袖の浦を詠んだことがあったが、もちろんこの頃は、出羽の袖の浦は知る由もなかった。というより袖の浦は、出羽国の歌枕であることも意識せずに詠んでいたが、陸奥へと流されて、はじめてこの地を訪れたものと考えられるのである。
 最上川の古口(ふるくち)から清川に至る間の、いわゆる最上峡は、きり立った峡谷で、舟便にたよるほか、通行の術がなかったろうことは、それから約二百年経って源義経が奥州に下向する際も、ここを舟で溯っていることから推察される。義経記の文は、

 かくて御船(みふね)を上(のぼ)する程に、禅定(ぜんじよう)より落ちたぎる滝あり。北の方、「是をば何の滝といふぞ」と間ひ 給へば、白糸の滝と申(し)ければ、北の方かくぞ続け給ふ。

   最上川瀬々の岩波堰き止めよ寄らでぞ通る白糸の滝
   最上川岩越す波に月冴えて夜面白き白糸の滝

 とすさみつ1鎧の明神、胃の明神伏拝み参らせて、たかやりの瀬と申(す)難所を上らせ、煩ひておはするところに、上の山の端に猿(ましら)の声のしければ、北の方かくぞ続け給ひける。

   引きまはすかちはゝ弓にあらねどもたが矢で猿(さる)を射(い)て見つるかな

 とあり、この時から更に約五百年くだって、元禄時代の芭蕉もまたここを舟でくだったことは「奥の細道」 によって周く知られているところである。

4
 阿古屋の松を詠んだ歌で、年代の知られる最も古い歌は、「堀河院百首」 の、
  おぼつかないざ古のこととはむあこやの松にもの語りして
 という源顕仲(一〇五六−一一三五)の歌である。この歌は夫木集にも収録されており、長治三(一一〇六)年の詠である。実方がみちのくに流された長徳元(九九五)年から、ちょうど百十年目にあたる。そして百十年後という事は、あこやの松を「実方の頃から歌枕だったかどうか疑わしい」とする疑問を起こすのももっともなくらいの年代の隔たりと見なしてよいかもしれない。
 しかし顕仲の歌が生まれるためには、あこやの松が都の文人たちにある程度知れわたっていなければならないものと思う。古い松であることを顕仲だけが知っていて、他の人は知らないのでは、この歌の詠まれる動機は存在しないと言ってよいように思われる。
 したがって阿古屋の松に対する実方の話は、多少の潤色はあるにしても、実話として語り伝えられ、それに伴って「みちのくの阿古屋の松に木隠れて出づべき月の出でもやらぬか」(諸本により歌句に若干の相違がある)の歌も、広く知られていたものと、私は考えたい。
 ところで、右の古歌だが、都の人が、阿古屋の松の名だけを聞いて作ったものとは思えない。阿古屋の松のあった位置とか地形を知らないでは、この歌は作れない。月の出るのは、いつの世も東からであるが、その月の出をまともに見ようとすれば、西側に位置しなければならないことは論を待たないところである。そして阿古屋の松は事実西側からしか望見できなかったろうと思われる地形上の特徴が存するのである。
 山形市の東南郊にある標高四七一・一メートルの、全山松に覆われる千歳山の頂上に、あこやの松はあったという(出羽国風土略記ほか)。麓の部落平清水の海抜は一八〇メートルから一九〇メートルであるから、比高二八〇〜二九〇メートルのいただきである。ここに江戸時代のはじめ頃まで、あこやの松があったらしい。元文二(一七三七)年十一月の佐久間久左衛門氏の書上書(『南村山郡史』所収) には、
一、阿古屋の松往古の木は百年徐前に朽枯候由に御座候
 とあり、枯死した大体の年代は推察される。元文二年より後の文献にも、あこやの松の所在を記したものがある由であるが、それはたぶん二代目の松で、「往古の木」ではあるまい。その二代目の松も江戸後半には消滅してしまい、少なくも幕末から明治の終り頃までは、あこやの松は存在しなかった。
 現在のあこやの松は、千歳山北東麓の万松寺裏の丘の上(千歳山の山裾)にある。万松寺の位置は海抜二二〇メートル、その裏を少し登ると実方の墓と称する古い碑があり、さらに登って標高二五〇メートルくらいのところにある直径二十五センチほどの松である。あこやの松の伝説を、明治十四年に千歳山に行幸された明治天皇がお聞きになり、その消滅を惜しんで、勅使川田剛を派遣して調査させ、明治四十一年に皇太子(大正天皇)から苗を送ってきたのが、今のあこやの松であるという。傍に大正二年十月の井上頼園撰文の「阿古耶松碑」が建っている。現在地の選定は、何を根拠にされたものか明らかではないが、できたら山頂に構えてほしかったと思う。
 それはともかく、この千歳山の東方は、山がつづき、奥羽山脈につながっている。北には東沢の峡があり、笹谷街道が通っているが、すぐ山の下を通るので、頂上の様子は見えない。結局平野部の西側(羽州街道のある側)からしか望見できないと言ってよいが、「木隠れて」の歌は、その地勢を知っていて作ったと思われる。村山平野の西山か東山かもわからないでは、この歌は作れなかったろうと思われるゆえんで、現地を知る人の作と判断して誤らないと思う。その点「最上川のばればくだる稲舟の」の歌について、窪田空穂氏が与えた「それ(最上川の稲舟の情景)を眼前に見てのものであることが、序詞によって暗示され、それが実感味を添えて、一首の味わいをなしている」(古今和歌集評釈)と似た評言を、この一首に与えることができよう。
 古今集の東歌は、
  みちのく歌  七首
  さがみうた  一首
  ひたちうた  二首
  かひうた   二首
  いせうた   一首
 の十首で、半数以上をみちのく歌が占めている。万葉集では社歌三首、誓喩歌一首の計四首で、国別判明の東歌八十一首の、五パーセント弱に過ぎないのに較べて大変な増加率と言ってよい。その事は、古今集の編纂当時、みちのく歌が注目を浴びていたことを示すものであろう。私はさきに、阿古屋の松の古歌を古今集東歌とさほど年代の隔たらない頃の歌ではないかといったが、勅撰集や伊勢物語などに記されないで終ったみちのく歌もかなりあって、この古歌もその仲間に入るのではないかと思うのである。
 その一託として、私は第三句の「木隠(こがく)れて」に注目したい。木の蔭に隠れることを、木障(こがく)るとする句法は、万葉時代には存在しなかった。木(こ)の葉隠(はがく)る、木(こ)の下隠(したがく)るの例はあるが、木隠(こがく)るの例はない。「春去者(はるされば)、木陰多(おほき)、暮月夜(ゆふづくよ)」(一八七五の一云)の第二句は、旧訓が「こがくれ多き」であったが、近時は「このくれ多き」に訂正され、この方が正しいと思う。したがって、「木隠れ」という名詞形も存在しなかったといってよい。
「木隠れて」「木隠れたり」などの句が見えるようになるのは、古今集からである。そして後撰集に及び、そのあと一時絶えてしまう。
  足ひきの山下水のこがくれてたざつ心をせきぞかねつる (古今、恋一、よみ人しらず)
  ……あしひきの やました水の 木がくれて たざつ心を たれにかも……(古今、雑体、よみ人しらず)
  君が世に逢坂山の岩しみづこがくれたりと思ひけるかな (古今、雑体、忠峯)
  春くれば木隠れ多き夕づく夜おぼつかなくも花かげにして (後漢、春中、よみ人しらず)
  木隠れてさ月まつともほととぎすはねならはしに枝うつりせよ (後瑛、夏、伊勢)
  足引の山した水のこがくれてたざつ心をせきぞかねつる (後撰、恋四、よしの朝臣)
  木隠れてたざつ山水いづれかはめにしも見ゆる音にこそきけ (後撰、恋四、よみ人しらず)
 あとにつづく拾遺、後拾遺、金葉、詞花の各勅撰集には、この句法は一例もなく、平安末期の千載集にいたって、ようやく一例が現われるにすぎない(ただし源氏物語に一例がある)。古今、後撰の場合も、よみ人しらずの歌が多く、伊勢、忠琴に各一例があるのみである。一時的に行なわれて、あとすたれた句法といってよく、この事から、阿古屋の松の歌の作られた年代に関する指針を得ることのできるように思う。                     (「形成」昭51・12−昭52・3)
 (付記)あこやの松は、古書には「阿古屋の松」と記されることが多く、「阿古野ノ松」と記した例もある が、現在の用字は「阿古耶の松」が普通である。

阿古屋の松の写ってない万松寺の写真
2006/02/04UP