メアカンフスマとの再会

2002/07/10

 
 登山は私の趣味の一つですが、年を取るにつけ次第に足が弱まり、高い山やアプローチの長い登りはもう無理です。フスマの花は高山植物で、白色五弁の小さな花ですが、山形県と秋田県の境にある鳥海山に自生し、北海道では、雌阿寒岳と知床の山に存在しているとあります。これらが同種であるかどうかは、学門的には、今の所、学者により必ずしも一致しては居りませんが、素人である私にとって、それはどちらでもよい事なのです。
 私がこのフスマ花こだわるのには勿論理由があります。 昔の日本は島国で、更に鎖国をしていました。そのために自国内の文化としては、世界に誇るべき多くのものを持ってはいましたが、しかし、西欧の急激に進歩した近代科学には大変遅れていました。明治の時代となり、近代国家を目指しての大改革が行なわれた時、政府は世界に追いつけ追い越せを目標に、国立の高等学校を全国に三十数校作りました。東京や京都などの大都会ばかりでなく、地方の若者達の勉学を考慮して、地方の小都市にも作りました。山形高等学校もその一つで、私の母校です。全寮制で勉学は勿論ですが、心と体の鍛練に重点が置かれ、よく学びよく遊べると云う有り難い高校でしたが、戦争に敗れた時、アメリカ軍政部の方針で、アメリカと同じような、現在の学制制度が押し付けられてしまいました。
 そんな事情で、昔の高等学校は廃校となり、新しく誰でもが入学出来る現在の高校に変わってしまいました。それで、昔の高校を旧制高等学校と呼ぶ事にしたのです。ちなみに旧制高等学校は、その時点で山形大学に昇格してしまいました。
 旧制山形高等学校の校章は、鳥海山のフスマ花を真上から見て、十文字の葉と真ん中に在る蕾みをデザイン化して作られていました。激しい入学試験の競争を突破して、憧れの高校に入学する事が、私達の中学時代の苦しみでもあり、楽しみでもであったのです。
 山形高校の生活は校章であるフスマの花の下での毎日でした。誇りに満ちた若者の集まりでした。自治寮で外部からの干渉もなく、世界に追いつけ追い越せの使命を感じての毎日であったのです。
 私はそこで柔道部に入り勉強以外の時間の大半は柔道の稽古に熱中しました。柔道は今でも指導者として離れることはありません。
 在学中に鳥海山に登って、フスマの花に会う事は計画だけに終わりましたが、釧路に来てからは、高山植物の本でメアカンフスマが雌阿寒にある事を知り、世の中が大分落着いてから、雌阿寒に登り、初めてフスマの花に会う事が出来ました。
 その時はオンネトー側から登りましたが、頂上近くの瓦礫の中で、突然の出会いでした。こんな瓦礫の中で厳しい冬を乗り越えて、純白を保ち続け毎年のように生き続けてきた強さは何だろうと思い、会えた喜びが畏敬となり、このフスマの花を、而も、敢えて、花弁でなく、其の葉と蕾を校章にした当時の先達の深い熟慮を思い、学生時代とは一味違った感慨に浸りました。
 以来、雌阿寒岳には何回も登りましたが、職場が変わって10年余りは機会がなく過ごしてしまいました。
 昨年の事でした、気が付くともう八十才を超え、校章の謂れとは程遠い慚愧に耐えない自分だはあるが、もう一度フスマの花に会って心を洗われたい、でも、もう無理か、と思っていた所、職場の岡先生が皆でサポートするから、その願い叶えてあげましょうと励まして呉れましたので、昨年は足ならしに先ず藻琴山に登り、更に雌阿寒岳をと計画しましたが、天候が悪く実行できず、今年になってしまいました。
 高齢になると、人にもよりますが、年ごとに急速に体力が低下します。今年は八十四歳、出来るかぎり鍛練はしているけれど、やはり、一抹の不安は消えないままに登山の日はやって来ました。
 今年の釧路地方は例年になく寒く、登山予定日の三、四日前には雌阿寒岳に雪が降り、六合目から上は真っ白で、新聞にも載っていました。それで、防寒の用意を充分にして出かける事にしました。朝、気温は十度、これでは山は相当寒いと思いました。岡先生がリーダーで、支援して頂く馬場、森先生とナースの端谷さん、それと、岡先生のお孫さんで小学四年生森先生のお子さんの小学一年生、私を入れて全部で七名の一行です。
 駐車場となっている広場に車を置き、体操をして、私は皆によろしくお願いしますと丁寧に頭を下げました。空はすっかり晴れて予定とは違い、暑くなりそうでした。
 駐車場から何か近道のような熊笹の密生している小道がありそれを少し登って行きましたが、どうも違うようす。ウグイスが綺麗な声で歓迎してくれましたが、本当の登山道には出られず、後戻りしたりして、少し時間をロスしましたが、皆元気に登り始めました。道はトドマツやエゾマツの多い自然林でしょうか、枯れたまま立っていたり、もう朽ち木になっているのが見られます。若い木の皮が鹿に食べられ、そのために枯れているのもあります。倒れた大木が腐って、それを栄養にして緑鮮やかな若い木が並んで育っているのを見ると自然の営みがよく解ります。
 林の道が終わり、傾斜がだんだんきつくなる頃からは這松が多くなり、最初の急斜面を登ります、そして息をはずませながら登り切った所で、右手に硫黄の露頭があり、硫黄の匂いがして来ました。子供達は元気で足下の昆虫を捕まえて遊んだり、どんどん先に行って大人達を待っていたり、本当に驚きました。 
 それに引き換え私は何かいつもより調子が出ない状態がつづき、ただもくもくと下を向いて登るのが精一杯でした。足下の花々にも碌な挨拶もせず、尋ねられれば、ゴゼンタチバナ、これはツマトリソウと答えるだけでした、硫黄のある近くに黄色な花叢が見えましたが、確かめに行く元気はありません。多分それはメアカンキンバイだと思いました。
 登山道の横にはセンダイハギの群落もありました。暫くして後ろで、雄阿寒が見えると叫んだので、振り向くと成る程阿寒湖を従えた雄阿寒の雄大な姿があり、見ているだけで大分元気つけられました。しかし、それからが再び登りとなり、這松のトンネルを頭を下げて行かねばなりません、背の高い森先生がきっと苦労してるんだろうと思いながらも声も出ない自分でした。それでも、ひと休みすることもなく、更に進みますと、目の前に三角形の美しい峰が現れました。剣ガ峰で、今日の目標です。山頂に小さい人がいます、子供達がいち早く見つけてヤッホーを繰り返していましたが届く距離ではありません。剣ガ峰をカメラにおさめて少し進むと「あれー 」と立ち止まりました。
 何回かの崩落で出来た固まつた火山灰の崖の中腹を横断して、細い道が現れました。下を覗くと目眩がして吸い込まれそうです。上は這松地帯ですが、掴まるには遠すぎます。どうする、一瞬迷いましたが、進むより他何がありましょう。
 道幅は靴の幅二足分です。少しでも崩れて体の平行を失ったら、転落し、一巻の終わりです。こんな場合恐ろしいと思ったら危険です、これは氷りの道で皆さんも経験があるでしょう。
 先を歩いている子供達は平気です。それどころか、足下の土を靴で崩して落ち行く先を覗いているのです。私がこれから歩こうとしている道です
 「危ない、止めて 」と私は手を振り、頭を振りました。子供達は了解したようで、走るように渡って行きました。
 支援の皆さんが後ろにいますので、ここでギブアップは出来ません。覚悟を決め、深呼吸をして、精神を集中、杖を山側に軽く刺し、何時でも深く刺せるようにして、おそるおそる足を踏み出しました。
 目は足下だけを見て進みました。半ばを過ぎてからやっと大丈夫なんだと気が楽になり、足も緊張が取れて、この難所を通過出来ました。でも直ぐに下山のとき又ここを無事通れるかと心配が出て来ました。後ろの皆さんはおそらく私が年をとったなあと感じたことと思います。
 剣ガ峰を巻くようにしてきつい登りがあります、大小の石が続いている道は歩き難く、下山のときには膝が心配だと思われました。遥か上の方に は、頂上に続く馬の背が見えて来ました。もう汗でびっしょりです。だるい脚を引きずるようにようにして登りました。すると「あそこの手前位からメアカンフスマがありますよ 」と岡リーダーが馬の背を指しました。
 もう少しで花に会えると思うと元気が出て、きつい登りでしたが、案外早くそこに近づきました。
 やがて足下にメアカンキンバイが金色に輝いている所に着きました。その時、岡リーダーが「ほら、そこに」と指さす先にフスマの花が咲いていました。
 それは、二抱えもあるごつごつした岩の割れ目に咲いおり、小さな純白五弁の花は決して派手に誇ることもせず、それでいて、しっかりと足下を固め、この北国の高山の厳しい所で生きつづけてきたのです。会えて本当によかったと皆に礼を云いました。
 馬の背の北側は広大な月のクレーターのようにも見えるし、盆状の砂漠のようにも見える地域で、所々にガンコウランが緑の敷物のように点在して、まるで砂漠のオアシス、今にも遠くにラクダに乗った隊商が現われるのではないかと思われる風景でした。
 馬の背を超えて現われたのは思い掛けない前田先生の姿でした、当直明けで遅く出発したとの事で、嬉しかったです。
 ガンコウランの上にジャージーを広げ、腰を下ろしての握り飯はまさに贅沢の極みと云えましょう。誰かさんは横になって休んでいて戻るのを忘れてしまいそうです。馬の背で記念写真をとりました。
 前田先生は用事で直ぐに下山するので弁当が終わると一人で下山してしまいました。流石に若くて元気一杯です。
 続いてこちらも下山です。花々に別れを告げ、膝を庇いながら一歩一歩下って行くのです。子供達は走るように降りては一行を待っています。下りながらの風景は登りの時とは、一味違って見えるんです。私は登りで体力を殆ど使い果たしたのか、汗は絞る程、体はふらふらです。それでも、あの難所を渡るまでは帰れないと云う気持ちが脚を運んでいるのです。景色を楽しむ余裕はありませんでした。
 途中でどこかのご婦人の団体にすれ違いました、あの難所を渡って急な坂を登って来たのです。苦しそうでした。無事に登山を終えられるのでしょうか心配になりました。
 でも、本当はそれ所では無かったのです。私が何とか皆の支援であの難所を無事渡れて、やれやれこれなら下山迄持ちそうだと思った瞬間の事でした、突然くらくらっと目が回り、これはいかんと直ぐに、足下の岩に腰を下ろしました。と、同時に左の大腿に激しい痙攣が起きました。痙攣は間歇的ですが、少しでも脚を動かすと始まります、五秒から十秒程度ですが、ひどく痛みます。
 支援の皆さんが駆け寄って「どうした、大丈夫?」と問いかけますが、痙攣中はただ「痛い、痛い」としか答えられません。私は何度も経験していますから、その内治ると思っていますが、何より皆に心配を掛けて済まないと云う気持ちで一杯でした。皆の心配そうなあの時の顔が今でも瞼に浮かびます。
 涼しい木陰で汗が冷えて来ました。少し横になったらと云われ、その前にお茶を飲もうと一口飲み、腰を上げましたら、ふらっとして、吐き気がして来ました。げ、げ、とこみ上げて来ましたが何も出ません、それで、ジャージーを敷いて貰い、仰向けに休みました。この間にも痙攣は左右両側で続いて起りました。服のベルトを外し、靴も脱いで、体を楽にして、足の裏を岩に押しつけると、痙攣が少し治まります、暫くしていると、大分痙攣が治まってきました。すると今度は下腹が痛み下しそうです、や、や、これは困った、でも、出すしか無い、と覚悟を決め、「腹が痛い、雉子打ちに行かなきゃ、」と体を少し起こしながら呟くように云いましたが皆は訝しげな顔です。仕方がないので、下痢しそうだから、人払いをと頼みました。女性と子供が離れたようですが定かではありません。
 もう我慢出来ないので起き上がり、屈んだ格好で道端の這松の下の窪みに行きパンツを下ろしてしゃがみました。でも大も、小もなく、大きなガスが二発出ただけで、空鉄砲でした。それでも幸いに腹痛がなくなり楽になりました。雉打の語源はここからかなと勝手に今思ったりしてます。
 それからまた元の通りに仰向けに寝ていますと、子供達がそっと顔を見せました。嬉しかったです、まるで天使のように見えました。その後、次第に痙攣が減って、軽くなりましたので「立ってみる、大分治まった」と私は皆に云いながら、支えて貰い、立ち上がりました。このアクシデントで三十分ばかり時間をロスしてしまいましたが、何とか歩けそうです。段差の多い急な下りは肩を貸して貰いながら、降りる事ができました。そして、もう大丈夫、あと少しだと、松林の中の緩い登り下りを歩いていますと、少しばかり、左脚に痙攣が来ましたが、立ち止まって休むだけで治まり、駐車場に戻って来る事が出来ました。私は改めて皆に頭を下げ、お礼の言葉を申しあげました。
 先生方の意見では多分日射病と筋肉疲労のためだと云う事で私もそう思います。本当にご厄介を掛けてしまい済みませんでした。
 八十四才の体の保水力は若い人の半分位だったことを忘れて、暑い中を水の補給を控えた失敗で、すっかり迷惑を掛けてしまいました。反省しております。でも、お陰さまで、もう一度メアカンフスマに会いたかった夢のような望みが叶えられて最高の喜びですし、撮って来た写真が良い記念にもなりとても良かったです。支援の皆さん本当に有難うございました
 「若きらの支えを受けて念願の山に登りぬ花に会いたく」逹庵