「たきの山」と赤い桜 

−元禄元年の古文書−


 山家集の「たきの山」問題を考えるのに役立つ貴重な資料が出て来た。元禄元年(一六八八)八月に、小立村の庄星、組頭、土百姓等が連名で関係役所に提出した口上書である。すなわち「乍恐以口上書申上候事」という長文の古文書で、三b程の巻紙に一杯に書いたものである。これは前田熊夫氏著『蔵王地区郷土史』(昭56)に登載されたのが、世に出た最初と思うが、遺憾ながら前田氏の書では読み誤りが多過ぎた。
 このたび、その原本のコピ−を入手することができたので、先ずこれを紹介したい。といっても、原文は例えば、
 中古、西行法師東国行脚之節、此瀧山之山寺江御出、桜を御覧被成県由、西行家集と申書物ニ御座候と承申候。依之西行桜と中古本瀧山ニ千今御座候。又西行坂と申所も御座候。
 注)現在の竜山を指す。
といった候文である。従って原文通り書いても、誰も読んでくれそうにないので、かいつまんで要旨だけを述べてゆきたい。
 要旨だけでも長文になるが、年代のはっきりした第一級の資料であり、本稿においても再々引用することになると思うので、最初に取上げておきたいと思う。(便宜上、節ごとに@AB……の番号を振って、見てゆくことにしたい。)
   恐れ乍ら口上番を以て申侯御事
(序)このたび瀧山の入会(いり・あい)のいざこざに関して、再返答しました文書、ならびに草谷倉、土坂両村の口上の答書、共にさし上げましたが、この両通の文書だけでは、入会をしてきたいきさつをはっきりと知ることができかねるということで、委細をお尋ね遊ばされました。その件について趣意をくわしく申上げます。
@瀧山という名のいわれは、南瀧の五つの不思議に由来すること。行基の開山と慈覚大師の再興のこと。大師が護摩堂を建立された場所を護摩堂山と言い、建物のあった所を「堂には」(堂庭)(注)といって、普請の跡がはっきりわかること。
 (注)堂にはー護摩堂(慈覚堂とも)を含んでその前の広場。現在でもそう呼んでいる。
A石行寺は学頭を、桜田の瀧山寺は別当を勤める瀧山の昔は、三千の坊が悉く備わっていたということ。その一部として大森萱御山の近所に三百坊という所があり、三百の坊が立ち並んでいた跡だと言うこと。その脇に古屋舗(ふるやしき)と呼んで寺跡が多く見わけられるところがあること。岩波観音堂の裏山には十五坊山というところがあり住居の跡もあること。瀧山の惣門は本木村(元木村)にあること。
B慈覚大師の再興は、山寺の立石寺の開基よりも少し前になること。知行も若干だが勅許のご寄附があって、一山は元来御除き(幕府・藩などの支配外のところ)の地であったので、学頭石行寺と別当瀧山寺で瀧山を支配してきたこと。
C中古に、西行法師が東国行脚の際に、この瀧山の山寺にきて、桜をご覧になったことが、西行家集という書物に書いてあると聞いていること。これによって西行桜と呼ぶ古木が瀧山に今もあること。又西行坂という所もあること。
Dこういう歴史的事情で、瀧山の葭(あし)と萱(かや)を苅るのは、瀧山の水を使用する麓の十六郷(注)の自由であったこと。
(注)十六郷−山田、成沢、飯田、下桜田、中桜田、上桜田、土坂、八森、神尾、元木、青田、小立、平清水、前田、岩波、革谷倉。
E山守は、最初は岩波学頭(石行寺)と、桜田別当(瀧山寺)とで、南北に分けて分担してきたが、村の数も多くなったので、神滝である南滝を堺に二分し、入会(いりあい)の場所としたこと。すなわち北は妙見寺山境までを七ケ郷 (注1)の入会地としたこと。そして南は赤倉山境まで九ケ郷(注2)の入会地としたこと。山守の人数もそれぞれ決まっていたこと。去々寅年(一昨年の寅年)(注3)まではそういう風に決まっていたこと。
 (注1)七ケ郷−元木、青田、小立、平清水、前田、岩波、草谷倉。2、九ケ郷−残りの九郷。3、去々寅年−貞享三年(一六八六)を指すことが、後の記述で判明する。
F上桜田に瀧山の山頭(やまがしら)を置き、お役所のお指図があれば、十六ケ郷に山頭が割り当てて、葭や萱を上納してきたこと。これも去々寅年(一昨年の寅年)までは相違がなかったこと。
G右の通りであったのだが、瀧山がいつとなく衰微してきて、元和年中(注1)に至り、石行寺の寺領は四百五拾石になり、坊舎の数も三拾ほどになったこと。瀧山寺は、寺側から、知代勧化(ちしろかんげ)(注2)を願い出て(許され)、古来から勧化をつづけてきたこと。
 (注1)元和年中(一六一五−一六二四)2、知代勧化−ちしろかんげ・知代は後では地代とも書く。勧化は寄附を集めること。地租のようなものを寺が集めたわけである。
Hところが、最上家の没落の際に、戦乱を避けてどの寺も空家になって、主となって取計らう人もいなくなったために、石行寺の知行も断絶してしまったこと。ただし瀧山寺は知代(ちしろ)なので、今もって集めていること。
 そして山頂の神宝は、例外扱いで古代から変わった点はないこと。
I瀧山は、十六ケ郷相持ちの山であって、特定の村だけが山自由ということがなかったこと。