格外に旧い資料

−小 立 文 書−

 西行が東国行脚の際に、立ち寄った出羽の「たきの山」は、「瀧山」(俗に竜山)であることを、小立(おだち)の古文書にはっきりと書いてある。そしてこの古文書は、元禄元年(一六八八)に書かれたものであることは、奥に「辰八月」とあることと、貞享三年(一六八六)丙寅の出来事を、「去々寅年」(一昨年の寅年)の出来事と記していることによって分かる。その年代推定をするためにも必要なので、とにかく全文の要旨をひきつづき見てゆくことにしよう。
J先年、奥平美作守の時代に、山田・成沢の両村が、山本だからといって、山自由にすべきことを訴え、争論が絶えなかったこと。しかし貞享元年七月五日の御裁許で、それが認められず、それ以来山本だからという主張がなくなったこと。
 (注)奥平美作守−奥平昌幸。寛文十二年(一六七二)から貞享二年(一六八五)六月までの間の山形城主。
Kところが、去々寅年(一昨年の寅年の意)の所替の際に、八森・草谷倉・土坂・神尾の四村が「公料」(公領)になったこと。そして神尾・土坂・草谷倉の三村で山の費用の割り当てをするようになったこと。その結果、入用銭がもとの倍々もかかるようになったので、岩波・両桜田からの山守は出さずにひかえてきたこと。(注)所替−貞享三年(一六八六)に堀田正伸が、たった一年で福島へ所替になった。
L殊に、葭(よし)と萱(かや)を採取させませんので、上桜田の山頭(やまがしら)役も、去々年以後(一昨年以来の意)勤めをひかえてきていること。三村のうち神尾は別にたくらみもなく、九ケ郷入会(いりあい)に反対する様子もないが、草谷倉と土坂の両村は、いろいろ謀計をめぐらし、でたらめを書上げているものと思われること。(当村としては)御公料萱を苅らせるまでは入会をひかえるべきだと思ったが、八森・岩波・平清水の三村が入会に加わったため、当村からも萱代として銭を出し、七ケ郷入会に加わったこと。
(結)委細申上げました通り、古くからの由緒があって入会(いりあい)をしている七ケ郷であるのに、何の証拠があって草谷倉と土坂の二村だけが自由であるのだろうか。古来の証拠を充分にご吟味してほしい。多忙で集まっての相談もならず、五ケ村まちまちに対応するようになり、このような口上書を一村で差上げることになりました。草谷倉と土坂の両村にほ策謀があって委せるのは危険なので、それ以前のことを吟味していただきたい。
右者往古ヨリ瀧山江入会侯訳中上侯  以上
辰 八月

 

小立村土百姓    
   吉 重 郎    
   七 兵 衛    
   武 兵 衛    
   伝 九 郎    
   善   八    
同村組頭    
   喜 兵 衛    
   書   六    
同村庄屋    
  小左衛門    

 とあって、名前の下にはそれぞれ墨印が押してある。
 これは、西行の来訪した「たきの山」について書き記した最も旧い資料であることが分かる。これまでは幕末頃の資料しか知られなかったのに、格外に旧い資料が出てきたわけである。 それだけに、漢字の読み方からして問題になる。「瀧山」をリユウザソと読むのか、それともタキノヤマと読むのかといったことである。出羽三山の月山を、元禄二年に訪れた芭蕉は、  雲の峯いくつくづれて月の山
と詠んでいる。本文ではガッサソ(グワッサソ)だが、句ではツキノヤマと詠んでいる。これは当時、月山をツキノヤマと呼ぶ呼び方が残っていたことに由来するものと見られる。ガッサソという音読みによる呼び方も生まれていたが、訓による呼び方も生きていた時代だったことが知られるわけである。
 同様に、「瀧山」の場合も、音読・訓読の両方の呼び方が行われていたのではないだろうか。明治三十九年に出た『大日本地名辞書』に「山家集に滝の山とありて、今も之を呼ぶことあり」(「龍山の項)とし、明治時代にもタキノヤマの称呼が残っていたことを伝えている。元禄にまで遡れば、訓読の頻度はもっと高かったものと推測される。従って、小立文書の中に、
  中古、西行法師東国行脚之節、此瀧山之
  山寺江御出、桜を御覧破成候由……
とある「瀧山」も、タキノヤマと読まれることを期待して書かれてある文字と考えることができるのである。

(資料篇一、二参照)
(資料提供−佐久間久氏、伊藤孝蔵氏)