とあって、名前の下にはそれぞれ墨印が押してある。
これは、西行の来訪した「たきの山」について書き記した最も旧い資料であることが分かる。これまでは幕末頃の資料しか知られなかったのに、格外に旧い資料が出てきたわけである。 それだけに、漢字の読み方からして問題になる。「瀧山」をリユウザソと読むのか、それともタキノヤマと読むのかといったことである。出羽三山の月山を、元禄二年に訪れた芭蕉は、 雲の峯いくつくづれて月の山
と詠んでいる。本文ではガッサソ(グワッサソ)だが、句ではツキノヤマと詠んでいる。これは当時、月山をツキノヤマと呼ぶ呼び方が残っていたことに由来するものと見られる。ガッサソという音読みによる呼び方も生まれていたが、訓による呼び方も生きていた時代だったことが知られるわけである。
同様に、「瀧山」の場合も、音読・訓読の両方の呼び方が行われていたのではないだろうか。明治三十九年に出た『大日本地名辞書』に「山家集に滝の山とありて、今も之を呼ぶことあり」(「龍山の項)とし、明治時代にもタキノヤマの称呼が残っていたことを伝えている。元禄にまで遡れば、訓読の頻度はもっと高かったものと推測される。従って、小立文書の中に、
中古、西行法師東国行脚之節、此瀧山之
山寺江御出、桜を御覧破成候由……
とある「瀧山」も、タキノヤマと読まれることを期待して書かれてある文字と考えることができるのである。
(資料篇一、二参照)
(資料提供−佐久間久氏、伊藤孝蔵氏)
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