竜山出土の古銭

 竜山にあった寺は、鎌倉時代に、幕府の命によって閉鎖され破却されたと言い伝えられている。しかしその年代や内容については、必ずしも一致していない。
 大正四年(一九一五)ハ月十七日に、当時の滝山小学校長であった横山亘氏の制作した「村社瀧山神社由緒」には、
 其後四百年有余間、繁盛ヲ極メタリシガ、後深草天皇ノ正嘉二年、故アリテ全山ヲ卦鎖セラレタリ。(「卦鎖」ハ「封鎖」の誤記か。なお元社主の宝崎松衛氏の写本によった。)とあり、かなり流布されている説である。
 しかし、昭和九年(一九三四)一月二十七日に、社掌・宝崎松衛、氏子総代・鏡庄内、鏡庄作の連名でもって、当時の石原山形県知事に提出された「神社明細帳編入願」には、
 建長三年、西明寺時頼、此山こ詣リケルニ、寺坊ノ僧等、此繁昌ヲ機トシ財ヲ貪り、参詣者ヲ凌辱スルアリテ、其横暴ヲ極メケレバ、鎌倉二帰リテ此山ヲ閉鎖セリ。(宝崎文書によった。)とある。正嘉二年(一二五八)ならば、幕府の執権は、北条長時(一二五六−一二六四の間の執権)の時であり、建長三年(一二五一)ならば、北条時頼(一二二七−一二六三、うち執権の期間は一二六四−一六五六)の執権の時に当る。
 時煩が出家して西明寺入道になったのは、康元元年(一二五六)十一月二十三日であり、伝えられる通り彼の地方行脚ががその後に行われたとすれば、正嘉二年説が妥当であるという線が出てくる。しかしそれだけに、作られた説でほないかという疑いも湧く。何かそれらのことを証明する物はないであろうかが問題になる。 竜山が信仰の山であったことを物語る資料として、またその閉鎖された時期をさぐる手がかりとして、重要な意味をもつ物に、竜山から出土した古銭がある。
 まず、山大博物館に収蔵されている古銭であるが、四十九枚あって、うち文字の判読可能なものが四十三枚ある。そしてその種別は、唐銭が三枚、五代銭が一枚、北宋銭が三十四枚、南宋銭が四枚、未詳一枚であることが分かる。そしてその種別と鋳造されたと思われる年時を掲げれば、
〇開元通宝(唐、玄宗、七一三年−七四二牢)、○同(同)、○乾元重宝(唐、粛宗、七五八年)。
〇唐国通宝(五代十国時代。九五八年か。『古銭大鑑』に「交泰年間」とある。)
〇太平通宝(北宗、太宗、九七六年。以下年号と皇帝名を略す)、
〇淳化元宝(同、九九〇)、〇至道元宝(同、九九五)、〇咸平元宝(同、九九八)、〇景徳元宝(同、一〇〇四)、〇祥符元宝(同、一〇〇八)、〇祥符通宝(同、同)、〇天禧通宝(同、一〇一七)、〇天聖元宝(同、一〇一二)、〇明道元宝(同、一〇三二)、〇同
(同)、〇景祐元宝(同、一〇三四)、〇皇宋通宝(同、一〇三八)、〇至和元宝(同、一〇五四)、〇至和通宝(同、同)、〇嘉祐元宝
(同、一〇五六)、〇嘉祐通宝(同、同)、〇同(同)、〇治平元宝
(同、一〇六四)、○照寧元宝(同、一〇六八)、○同(同)、○元豊通宝(同、一〇七八)、○同(同)、○元祐通宝(同、一〇八六)、○同(同、一〇九八)、○聖宋元宝(同、一一〇一)、○淳願元宝(南宋、一一七四)、○同(同)、○同(同)、○紹聖元宝(同、一〇九四)、○同(同)、○元符通宝(同、一一〇一)、○大観通宝(同、一一〇七)、○政和通宝(同、一一一一)。
 ○慶元通宝(同、一一九五)、○淳祐元宝(同一二四一−一二五二)、○威淳元宝(同、一二六五〜一二七四)。
○元聖元宝(未詳)
の通りである。
 この古銭は、土坂と神尾の堺で、三百坊の方から流れる川と神尾部落の方から流れる川の合流点付近から出土したものである。道路拡幅工事の際に、石の下から出てきたものだという。そして山大博物館に全部が収められたわけではなく、付近の人が拾得し持ち去った分も少なくないという。
 出土地点に家を持つ京谷平八郎氏(故人)も、拾得した一人であり、所持の古銭は十一枚であったことが、菅原勇氏を通じて筆者の許へ報知された。そしてその種別は、唐銭一枚、北宋銭七枚、南宋銭一枚、未詳二枚で、具体名は、○開元通宝(唐、七一三−七四二)
○天聖元宝(北宋、一〇二三)、○治平元宝(同、一〇六四)、○熙寧元宝(同、一〇六八)、○元豊通宝(同、一〇七八)、○紹聖元宝(同、一〇九四)、○元符通宝(同、一〇九八)、○政和通宝(同、一一一一)、○紹照元宝(南宋、一一九〇)
○聖宋元宝(未詳)、○文字不明(未詳)。
の如くであった。
 これらの古銭の出土地点は、二つの川の合流地点近くであることは前にも述べたが、二つの道が合体する所のすぐ近くでもあった。すなわち神尾−土坂間の道路に、上桜田方面からの登山道がぶつかる三叉路のすぐ傍でもあった。(現在の道路も似た形の三叉路を形成している。)そういう形から見て、ここに信仰にかかわる何かが存在したことは想像できることであり、出土の古銭群はそこで撒かれた賽銭ではなかったかと想像される。
(例えば、老齢所や女人の遥拝者のようなものが、ここにあったという見方もあり得よう。) とすれば、竜山が宗教の山として何時ごろ栄えたかを知る手がかりにもなると思うので、右の二古銭群を合わせて、世紀別に分けて見れば、
 八世紀のもの      四杖
 九世紀のもの      なし
 十世紀のもの      四杖
 十一世紀のもの 三十一枚
 十二世紀のもの    七枚
 十三世紀のもの    二枚
となる。十一世紀のものが圧倒的に多く、次いで十二世紀、十世紀の順になることが知られる。そして十三世紀後半で、全く跡絶えてしまっていることが知られるのである。
(補記)その後、神尾の佐藤友三氏拾得の二十七枚分の目録を貰ったが、これでも最も古いものは開元通宝で、新しいものは、
  景定元宝 南宋、一二〇六年。
であった。