竜山の封鎖と破却

 竜山の古銭は、前項に述べた地点のほか、他の二箇所からも出土したというが、今は散失してしまって、調査の対象とすることができない。従って山大博物館蔵のものと、京谷氏の拾得のものによって見てゆくより仕方がないが、その山大分の中に、
○咸淳元宝(南宋、一二六五−一二七四)
が存在することの意味は大きい。何故かというと、その鋳造年が、北条時頼(一二二七−一二六三)の没年より後だからである。竜山には、建長三年(一二五一)閉山説と正嘉二年(一二五八)閉山説とがあり、何れも時頼生存中の閉山とされてきているが、右の古銭は、時頼の死後に鋳造されたものである。従って時頼の命による閉山説はあやしいのではないか。そんな疑いを生み出す材料になることは止むを得ない。 とは言っても咸淳元年の鋳造年が、咸淳元年だとすると(中国の銭貨は、元号の代った年に鋳造されることが多かったのでその可能性は大きい)、それは時頼の没年より二年後であるに過ぎない。そして竜山の破却に数年間を要したと見れば、時頼の命による封鎖の可能性はなおあり得ることになるだろう。建長三年説や正嘉二年説はともかくとしても、時頼の晩年の命による封鎖説は、その可能性を失わないものと見てよいであろう。
−このように言うと、咸淳元宝は中国の南宋の銭であったのだから、日本で使用されるまでには、数年を要したのではないかと思う人がいるかも知れない。そういう疑問を抱く人のために、日本の銭貨について少しく述べておきたい。日本では、奈良時代の和同開弥から、平安時代の乾元大宝(村上天皇、天徳二年<九五八>)まで銭貨が造られたが、それ以後江戸時代の初期までの六百年余り、官銭の鋳造は中絶してしまったのである。そして中国から銭貨を輸入し、これを通貨として使用したのである。「日出づる国」を自負した東海の君主国も、こと銭貨に関しては、中国の属国並みで、全面的におんぶしていたのは、だらしのないはなしだが、それが実態であった。だから、中国で新しい銭貨が発行されると、いちはやくそれを輸入したものと見られ、鋳造された年に、出羽の山形で使用されても、別に不思議ではなかったのである。竜山出土の古銭に、和銭が全くなく、唐銭、宋銭だけがあって、しかもその種類が極めて豊富なのは、右のような事情の反映と見て差支えないものと思う。しかも竜山は中央と密接につながる信仰の山であったことを示すあかしにもなるものと見て差支えないものと思う。
 しかしこのように言うと、古銭と古瓦一枚と護摩鉢ぐらい出ても信仰の山とはいえないと反論する人がいるかも知れない。五輪塔とか板碑とかが出て、はじめて信仰の山と言えるのだと主張するかも知れない。そういう人のために、私は次のようなことを申し述べたい。
 それは、政令や幕命による寺の破却は、徹底して行われたということである。信仰の対象になるようなものは一切合財取り除き、火種になるようなものは残さなかったということである。近くは明治元年の神仏分離令による廃彿毀釈の時もそうであった。建物の礎石と庭の池ぐらいは残したが、あとはきれいさっぱりと片付けて何も残さなかった。五輪塔や板碑などは信仰の火種になり得るものであったから、もちろん真先に片付けられたものとみて差支えないのである。
 そしてその片付け方だが、これも一様ではなく、次のような三通りの対応があったのではないかと考えられる。
イ、仏像の類
 麓の寺々に引き取らせた。国の重要文化財に指定されている松尾山の仏像は、もと竜山仏であったと言われるが、他にも竜山仏と称する仏像を所有する寺院が少なくない。
ロ、建造物の場合
 焼き打ちにしたという伝えもあるが、節倹を旨とした最明寺入道時頼や鎌倉幕府がそんなもったいないことをする筈がない。利用できる材木は町に下して利用させたと考えられる。
ハ、石造物の場合
 一般性のある姥神とか不動明王像などは、他に移して利用させた場合もあろうと考えられる。しかし僧の墓と見られる五輪塔など、引き取り手のないものは、寺領外に運んで捨てさせたものと思われる。竜山山麓の雑木林には、所属不明の五輪塔などごろごろしているところがあるが、これらは竜山から運ばれて捨てられたものではなかっただろうか。(特にサワチと称する所に多い。最近は庭の飾りにそれを持ってゆく人もおり、一人で五箇も運んでいった人がいたという話を聞いた。)
 以上の考察の結果、竜山の閉山の事情は、地元で語られてきた伝説とほぼ合致し、大きなずれは来たさないように思われる。そして出土の古銭によって、その伝説はある程度の裏付けを得た面があるように思われるのである。

(資料提供−菅原勇民)