竜山と後三年の役

 山大博物館収蔵の竜山古銭(京谷氏拾得の分を含む。以下同じ)が発掘されたのは、昭和三十二、三年頃という。今から約三十年ほど前のことだが、しかし発見のいきさつについては、地元の土坂、神尾においてさえはっきりしなくなっている。私はその地点に最も近い民家二軒を訪うて尋ねてみたが、共に地蜂の巣を掘っているうちに見つかったものと聞いているという答えであった。そして賽銭泥棒が掻き集めてきた賓銭を、石の下に隠しておいたものだろうとも言った。
 土坂の原田正作氏は、古銭発見時に現場に居合せて作業した人であり、現在もその近くで酪農を経営する人であるが、氏のいう真相はやはり道路(現在の西蔵王有料道路、当時は県道)の拡幅工事であった。道路工事中に、何か霊妙さを感じさせる大石を掘り返すと、その下に古銭が固まってあったのだという。石は丸味を帯びた横長のもので、上方が平らになっており、そこに何かを置いた鳳にも見えたということで、重さは一トン位あったろうかということであった。そしてその地点はいま、道路として舗装されており、「このあたりですよ」と正確にその場所を指示してくれた。上にかぶさっていた大石は、数人がかりでまくり落とし、今は道路の石垣の一つとして埋まっているだろうということであった。
 この古銭に関する賽銭泥棒の隠匿説は、地元だけでなく竜山研究家の間にも行なわれている説のようだが、しかしこれは当たらないと思う。なぜなら、先ず第一に、上に被さっていた石が大き過ぎて、一人や二人では動かし得なかったろうと思われるからである。それから第二に、或る時期に盗賊が賓銭をかき集めてきて隠したものなら、古銭の年代は長期に亘ることはあり得ないと考えられるからである。短期間に限定されるだろうと考えられるからである。ところが竜山の古銭は、八世紀のものから十三世紀のものまであって、おそろしく長斯間にわたることが判明した。これは一時的な場所の移動の結果としては生じ得ないことで、長い年月の集積としか考えられない。そして十三世紀に至って集積が途切れたものと推定するほかはない。従って竜山古銭は、人力で動かしにくい石の下の窟に投げ込まれた賓銭で、そこにそれがあると分かっていた時期も、掘り出されることなく、後世へ伝存されたものと推定されるのである。(例えば、その石の下から山の涌水が噴出していて、その穴に賓銭が投げ込まれたような場合も考えられよう。)
 この古銭を、山大博物館に誰がいつ寄付したかも今のところ分からないが、標本として整理されており、それが出土銭(約一貫匁ほどあったと地元ではいう)の一部にせよ、全体の性格をかなりよく伝える形で寄付されたものと見てよいと思う。従ってわれわれは、これによって竜山の歴史的事実をさぐる手がかりとしてよいと思うが、それから分かることはどんなことであろうか。
 先ず、八世紀の古銭が数枚あって、慈覚大師以前にも竜山には寺が営まれたことがあったのではないかと想像させる。しかもそれは、各地に国分寺が創建された天平年間ごろの寺であった可能性がある。だがその寺は長くは続かず滅亡したように思われる。八世紀後半から九世紀にかけての古銭が一枚もないのは、そのためかと推定きれる。
 それから「瀧山寺」につながる二度日の寺の時代に入ったものと見られる。そして十世紀の古銭四杖、十一世紀の古銭三十一枚、十二世紀の古銭七杖という世紀毎の較差から見て、竜山が最も栄えたのは十一世紀であったろうことが判明する。世紀毎に見ればそうであるが、実際は九九〇年のものから一一一一年のものまでつながってあり、十世紀の末から十二世紀のはじめにかけて、竜山が栄えたであろうことが知られるのである。
 その竜山が、一一一二年以降、急激に衰退しはじめた。それから十二世紀末までの間に、たった二枚の古銭しか見られなくなるのは、その証拠といってよいだろう。その衰退の理由として、第一番に考えられるのが後三年の役(一〇八五−一〇八七)である。応徳二年(一〇八五)に、清原家衡・武衡が、藤原清衡と争い、源義家が清衡を援けたのに始まる後三年の役は、寛治元年(一〇八七)に家衡・武衡が謀殺されるまでつづいた。これに竜山が巻き込まれたことは、この時期の
 元祐通賓(北宋銭、一〇八六)
が、四枚も出土していることから知られる。思うに竜山は、清原勢に与してその戦勝祈願を行なったものではないかと思われるが、それが義家の不興を買っただけでなく、民心を離反させる理由にもなったようである。つまり八幡神を信奉する義家軍が勝利したことで、民心もまた八幡信仰へと傾いてゆき、竜山参りの足が遠のいていったのではないかと見られるのである。
 そして第二の理由としては、本山の延暦寺が、当時暴れ廻っていて、管下の寺院に僧兵要員や金員の供出を強要したのではないかと思われることを挙げ得よう。後三年の役でダメージを受けたとはいえ、その後二十年間はどは、なんとか体面を保ってきた竜山も、次第次第に疲弊し、衰退への道をたどることになったのではなかろうか。
〔補記〕後三年役において、山形を中心とする村山平野が、第一次の主戦場になったらしいことは、拙者『紙魚のつぶやき』の「八幡太郎に新説」「”雁の乱れ”は二口峠」等で触れた。参照してもらいたい。

(資料篇三参照) (調査協力−中沢勝麿氏、原田正作氏)