蝦夷による破壊

 第一、二稿に紹介した。元禄元年(一六八八)八月の小立文書に、瀧山之儀ハ、太古ヨリ無双之霊山二御座候得而、只今南瀧と申侯神瀧、五ツ之不思儀御座候故、是ノ山之惣名瀧山と申侯由二御座候。然ル所、和銅元戊申年、行基菩薩此ノ山御開キ、麓岩波ニ観音堂並石行寺を草創被レ成侯得共、云々。
とあって、竜山が行基菩薩によって開かれたことを記している。和銅元年と言い、行基菩薩と言い、余りに遠い話なので、単なる伝説のように聞えるが、しかしこれが決して荒唐無稽な説ではなかったことが、古銭の調査で分かってきた。
 ○開元通宝(唐、玄宗、七一三年−七四二)   二枚
 ○乾元重宝(唐、粛宗、七五八)              一枚
の三枚の唐銭は、八世紀に鋳造されたものである。そしてこの八世紀の銭貨は、その世紀内に使用された可能性が大で、百年後、二百年後に使用された可能性は、先ず無いといってよい。従って、八世紀の竜山に、それを使用するような施設が営まれていたのは確かだと見てよいと思う。そしてそういう施設は、寺以外には考えられない。和銅元年(七〇八)とまでは限定できなくとも、唐の開元年間(七一三−七四二)には、既に寺が創建されていたものと見られるのである。
 そしてその寺は、長く続かず、半世紀ほどで滅亡したらしいことも、古銭の調査から推測し得られるに至った。小立文書にも、慈覚大師が、石行寺を御再興≠ネされたついでに、
 仁寿元幸未年三月六日、瀧山之霊境御開キ、云々
とあって、また「御開キ」と言っているのは、古跡が全く認められていないほどに荒れてしまっていたことを示すものだろう。その荒れた状態についても、小立文書は描写をしていることは前掲の通りである。
 奈良時代末期から平安時代初期にかけては、いわゆる蝦夷の反乱期であり、中央政府からすれば、蝦夷征伐の時期でもあった。そして蝦夷は、東北の反仏教徒を指して言う場合が多かった。竜山第一次の寺も、そういう反仏教徒すなわち蝦夷によって破壊されたものであった可能性が大きい。
 エミシと言い、エゾと言うと、先住の異民族を指して言ったものと思っている人が多いが、そうではない。特に奈良後期から平安初期にかけての蝦夷は、中央の仏教政策に反抗して楯突いた、東北の人達を称していったもので、もちろん和人が主体である。山形周辺の蝦夷にあっては、全部が和人であったと見てよいだろうと思う。(小著『馬の骨』の”蝦夷”の項を参照してもらいたい。)
 竜山第一次の寺は、その蝦夷によって破壊されたものであろう。寺のあった場所は、古銭の出土地点あたりであったろうと考えられるが、それが徹底して破壊され、何も残っていなかった竜山に、第一次の寺が創建されたものであろう。だから両方とも「御開キ」といって、第二次のものを「再興」とは言わなかったものであろう。
 古銭は、そういった事情まで明らかにしてくれるが、しかしわれわれが問題にするのは、第二次の寺の方である。三百坊跡から堂庭にかけて堂宇が立ち並んでいたと見られる、後者の方である。
 それで先ず、その寺の名は何であったということから見てゆきたいと思う。吉田東伍の地名辞書には、清和実録貞観九年紀に、
 出羽国最上郡霊山寺、預之定額、
とある「霊山寺」が、それだとあり、他にも同趣のことを述べた吾が多い。この説は、竜山の寺跡の規模が大きく、定額寺たるにふさわしいと見られること、他に霊山寺の候補地としてめぼしい所がないことの理由で、強力な支持を得ている。そして私もまた、その見方を支持する一人である。元禄の小立文書にも、「知行も若干 勅許の御寄附御座候而」とあって、それを裏付けているものと見られる。
 竜山の寺の盛りの時分は、その西斜面の大部分と、上桜田・中桜田・下桜田方面の田畑を領有したものと見られるが、「勅許の御寄附」の田圃は中桜田・青田にあって、寺僧達が直接耕作したものであったらしい。中桜田には、「行人田」と呼ばれるところがあり、そこの畔に、五輪塔七基が、土中から掘り出されて並べてある。これは賜田と関わりのあった僧侶の墓と見られるものである。ギョウニダは、もちろん
ぎょうにんた「行人田」の訛った言い方であろう。(行人田は、滝山公民館のすぐ近くにある。)
 この勅賜田を失った時期が、「霊山寺」の寺号の改変を余儀なくされた時期でもあったように思われるが、その時期を私は、後三年役に置いて見ている。由緒ある「霊山寺」の名は、外からの圧力なしに捨て去るには、勿体ないほど立派な名前であったと思われるからである。 

(資料、写真提供−佐久間久氏、伊藤孝蔵氏)