霊山寺と礎石群

 前回の考察により、定額寺の霊山寺の候補地として残るのは、竜山だけになった。定額寺を問題にする場合、観音寺及び喩伽寺の双方に首を出す長谷堂滝の山も、霊山寺説までは主張しない。従って霊山寺の候補地は、竜山に絞られてきたと見てよいと思う。
 霊山寺−竜(こざとへん)山寺−瀧山寺の寺号の変遷については暫らく措こう。寺跡を探る場合は、霊山寺に焦点を絞って見た方が、分かりいいし手っ取り早い。つまり寺が創建された頃に立ち戻って、寺跡を調べてみたいと思う。その位置はどこで、その規模はどれはどのものであったかを、可能な範囲でなるべく具体的に述べてゆくことにしよらう。
 そのために私は、二十二年前に貰った一通の古手紙をひきあいに出したい。すなわち昭和四十四年に私は、山形市二位田の進藤茂輔氏から、三百坊石鳥居の近くで、「龍山寺跡」と覚しき礎石群を見たという内容の手紙を貰った。しばらく前に進藤氏が村の青年と共に、竜山に行った際に見たもので、その場所は石鳥居から一五〇メートル程東進した所にあったという内容であった。その頃、私は『山形県方言辞典』(昭和45年刊)の編集に追われていたので、進藤氏の折角の申し出に対して迅速な対応を取らなかった。しかしこれは竜山問題の重大な証拠になり得ると思ったので、写真と略図がほしいと言ってやった。すると間もなく、進藤氏からフィルム数枚と略図が送られてきた。それが昭和四十四年八月二日付の手紙であった。
 その手紙には、
  帰宅してから元龍山寺跡をよく見て居た青(年)を招いて話しましたが、そ石の穴は円だったそおです。二人で思ひ出してその見取画を書いて見ました。
とあり、コピーにあるような略図が書かれてあった。礎石群の周りは廻廊状になっていたらしく、その説明に「これはそ石より小さい上面の平らな石で敷きつめて通路のようになって居た」と記してあった。また礎石群の西北隅にはL字型の敷石群があり「これもL字に(廻廊と)同様の遣り方であった」と説明してあった。
このあたりの地形を、分かり易くするため、図に描いて記号をつければ、

略図のようになる。そして礎石群はD台地に(国民宿舎の水源地のある小川の右岸)にあったというのである。
 戦後の食料不足は、山畑や山田の開墾を促進させた。B台地は、戦前から蕎麦畑になっていたが、深く耕やされて本格的な畑になった。水に利便なC台地とE台地は、水田になった。だが、D台地は、樹木と萱の生えた薮の状態で放置されていた。そこに目をつけた城西からの入植者が、耕地にしようと国有林他の払下げを願い出て許可された。それで木を伐り萱を刈り、表面の腐植土を除けてみると、現われ出たのが礎石群であった。その石を片付けないことには、田にも畑にもすることができない。しかし人力ではどうにもならない石の大群であった。それでブルドーザーを入れて、石片付けをするまでの暫らくの問、その礎石群は、むき出しのまま放置されることになった。

 進藤茂輔氏と青年がD台地に足を踏み入れたのは、そんな状態の時であったらしい。その時期を私は、昭和四十年代の初め頃ではなかったかと推測する。その頃進藤氏は、長谷堂の廃寺”真妙寺”に興味を持ち、その掘り起こしに懸命になっていた。だからその礎石群にも自然と関心が向いたものと思われる。普通の登山家や山菜採りなら、軽く見て通るところを、かなり詳細に眼底にとどめておいて、略図化されたのは有り難いことであった。
 進藤氏がカメラを持って再びそこへ行ったのは何時のことか、これも明らかではない。しかしその時には礎石群は片付けられてしまったのか見えなくなっていた。写真で見ると、D台地はまだ耕地(水田?)化されていないが、整地されてのっべらぼうになっていた。従って礎石群をカメラに収めることはできなかった。ただ水源地川に添って造られた通路には、丸くて浅い孔の刻まれた大石一箇が残されてあり、それを写すことができた。

 進藤氏は今、老齢のため病臥中で、確かめ得る状態にないことば残念だが、こういう具体的な証言を残してくれたのは貴重であった。私は二十年以上経った今になって、やっとそのあたりの踏査を始めているが、その遅さ加減には自分でもあきれている。これも自分の目で確かめた上でと思っているうち、どんどんと年月が経過してしまったものである。そして今、自分の足で歩き、自分の目で確かめてみて、進藤氏の報告が事実であったろうことの確信を強めつつある次第である。
(補記) D台地は、石が多過ぎて結局、水田にはできなかったようである。一部の石は北側の縁に片づけられたが、残った石も少なくないようだ。