霊山寺の食堂跡と鐘楼跡

 前回は、二十二年前に、山形市二位田の進藤茂輔氏から受取った手紙の内容を紹介した。三百坊石鳥居から少し東進した所で、整然たる礎石群を見たという内容であった。礎石群だけでなく、それを取囲む敷石帯についても、その手紙には書かれてあった。またその西北隅には、L字型の敷石帯が付属してあったとも書かれていた。またそこから東へ少し離れて、杉林との間に「遺跡らしい所」が認められたことも書かれてあった。すなわち模写の如き略図が書かれてあったわけである。
 平成三年九月七、八日の両目、此の地を筑波大学名誉教授増田精一氏が踏査された。増田氏は、イランの発掘隊の責任者として海外の遺跡調査を永年続けてこられた考古学界の権威である。この度もイラソから帰国されたばかりであったが、私の要請を受け入れて快く来訪してくれたのはありがたいことであった。

 九月七日の夕刻、氏は水源地川右岸台地(D台地)の牧草畑を歩き廻っていたが、たちまち牧草の下の礎石と見られる大石二箇を発見した。一つは中央部、もう一つは北西寄りの所にそれらはあった。整地の際に、ブルが動かし切れずに残したものらしい。そして二つの石の発見によって増田氏は、進藤氏の略図に事実性があることを認めたようであった。
「牧草に隠れて、もっと石が残っているかも知れない。それなら尚更だか、この二つだけからでも凡その規模を復元することが可能だ」と氏は言った。それから「その際、石に穴が穿ってあるかどうかは問題にしなくともよい。大事なのは石の配置だ」とも言った。

 進藤氏の手紙には、礎石問の距離や敷石帯の幅などについて何も書いてなかった。そして整地の際、礎石群はすべて片づけられてしまったものと私は思いこんでいた。従って規模等の復元は、今となっては不可能だろうと思っていたが、そうでないことを増田氏から指摘されたわけであった。
 私は今年に入って九回はど、三百坊の地を訪れた。同行者のいる時もあったが、単身の時が多かった。そしてここの台地をひそかに霊山寺の食堂(じきどう)跡ではなかったかと思うようになった。
本書九九更に引いた常善寺縁起に、

   羽州村山郡鳴澤山常善寺ノ元由ヲタ
   ヅヌレバ、ソノカミ貞観年中ニ、慈
   覚大師東山喜興寺ヲヒラキ玉へテヨ
   リ、天台遮部ノ霊場サカンニシテ三
   諦ノ月窓ヲ照ラシ、円融ノ法水谷二
   流レ、頗ル三百房(隆勝寺本「三百坊」)
   ニ越ヘタリト云云。シカルニ今化縁
   ツキ、法廷絶へテ虎狼ノ住所トナリ、
   タマ<タヅヌレバ鐘楼・
   食堂ノアトノミ有り。(後略)

とあった、その食堂(じきどう)の跡である。
 そして杉森と礎石帯の間にある「遺跡らしい所」は炊飯所であり、西北部のL字型のところには、風呂場や厠があったのではないかといったことまで想像した。「遺跡らしい所」の右端は今、国民宿舎の水源地になっており、良水を得るに便利な場所である。そしてその側の土中から火に焼けてすすけた赤石一箇と(増田氏確認、ペソション保管)、作場道(さくばみち)からは赤煉瓦の破片二箇を発見したりして、いよいよその思いを深めていった次第であった。

 一方、私は ”ログ・ハウス 三百坊” というペソショソの建っている位置を、鐘楼跡ではなかったかと思うようになった。ペソショソは、三年前に整地し二年前に開業した由だが、整地に当って移しい数の巨石群が出てきた。高い建物を建てる場合、礎石の下にもたくさんの石をつめこむそうだが(増田氏談)、その高い建物は鐘楼ではなかったのか。出土範囲が狭いだけに、その感を強くしたわけであった。

 それにその側から、鎌倉時代と推定されている丸瓦が出土していることも、鐘楼跡と見られる一証になると思った。多雪地帯で雪下ろしを必要とする大きい屋根に、瓦は向かない。雪下ろしの際に損傷してしまうからである。従って雪下ろしをしないで済む狭い屋根にだけ、瓦が用いられる。(山形市で瓦屋根がはやらないのは、そのためである。)そしてその瓦とは、山大博物館に収蔵され、その「考古学資料日録U」に、
 531 軒丸瓦 一個
  径 13・OCm  歴史時代(鎌倉時代)
    山形市土坂三百坊(旧南村山郡滝山村)
             佐藤 寛           不明

と記載されている一枚である。
(付)長谷勘三郎氏はこの瓦について、「これは建造物の屋根に使われた軒丸瓦ではない。その作りをみれば一目瞭然である。…用途・正体はいまのところ不明だ。したがって、年代判定も困難である」(「やまがた散歩」平成2年1月号)と異見を述べているが、根拠薄弱である。公的機関の種摂分けや年代推定に異見を言うのは自由だが、その際はもっと慎重でありたいものだ。「一目瞭然」だけで否定してしまうのは、その公的機関に対しても失礼になると思うからである。

(資料提供−進藤茂輔氏、協力者−北村優季氏、神保藤吉雄氏)