長岡(村木沢)楯


2017/08/14

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長岡楯は村木沢楯とも呼ばれ、最上四十八楯の一つである。神保隠岐守の居館であったと言われているが、 また一説には、慶長出羽合戦の時には畑谷城主の江口五兵衛光清が楯主であったとも言われる。 狐越街道からの上杉勢防備の要地であった。慶長出羽合戦の折、9月30日に直江山城守兼続率いる上杉勢が退却する際に最上勢は猛追撃を掛け柏倉中林山や富神山東麓地帯で激戦が展開された。 その夜、上杉勢はこの長岡楯に宿陣した。撤退戦で重傷を負った上杉方の軍奉行溝口左馬介は、ここで相果てたと伝えられ、
その時に左馬介の首を洗ったと言われる井戸が首洗い井戸であると言う。 長岡楯は独立丘陵に築かれており、その地勢は現在でも明瞭である。しかし畑や公園化によって改変されているため遺構ははっきりせず、 腰曲輪らしい地形はあるが、後世の改変の疑いが残る。 主郭跡と思われる場所は現在公園となっているほか、いくつもの社や供養塔が置かれている。
公園の登り口には首洗い井戸が残るが、蓋をされてしまっている ということで、溝口左馬介の死没の場所であると同時に、佐倉の義民木内宗吾の霊神を祀った霊場でもあり、その木内宗吾は佐倉惣五郎(さくら そうごろう)で、1600年代半ばの人 領主堀田氏の重税に苦しむ農民のために将軍への直訴をおこない、処刑されたという義民伝説で知られるとのこと。Wiki にも溝口左馬介より、いっぱい記述がある 佐倉惣五郎は領主堀田氏の重税に苦しむ農民のために将軍への直訴しようだが、その功績を顕彰したのも堀田の殿様、この堀田氏、なかなかおもしろい歴史を持っている
1701年忠臣蔵の元禄赤穂事件が起こるが、そのちょっと前の1684年時の大老、堀田正俊が従叔父で若年寄の美濃青野藩主・稲葉正休に江戸城内で刺殺された。稲葉正休も、その場で殺害されたので、あだ討ちなどのドラマにはならなかったようだ
その正俊さんの子が、はじめて山形にやって来た堀田正仲さんである。その後、松平家が二つ入って、1700年〜 1746年、堀田正虎・正春・正亮の三代の藩主が就任した。佐倉に移ってからも、柏倉4万石が佐倉藩の飛び地(柏倉陣屋)として廃藩置県まで残ったのであった。 その暗殺事件の時の将軍は、赤穂事件の時と同じ、徳川綱吉で、先代の将軍、徳川家綱の死去にあたり、堀田正俊の推しで将軍になった。 これが左馬介の首を洗ったと言われる井戸が首洗い井戸であるらしく、井戸は蓋で見えないよう
話はあっちこっちに飛んだが、佐倉惣五郎に戻って、堀田家最後の山形藩主、堀田正亮は、1746年、山形から佐倉へ入封した。その時に、惣五郎を顕彰するために口の明神を遷宮し、涼風道閑居士と謚し、藩が認めた惣五郎の話は、十八世紀後半に一挙に体裁を整えた 自動車で、走り回るのでは、駐車禁止のレッドカード怖くて、こんな場所へ入っていくことは、まずないでしょうけど、自転車だとチョコチョコどこにでも行けます。歴史探索はチャリです!!