長岡(村木沢)楯

  

話はあっちこっちに飛んだが、佐倉惣五郎に戻って、堀田家最後の山形藩主、堀田正亮は、1746年、山形から佐倉へ入封した。その時に、惣五郎を顕彰するために口の明神を遷宮し、涼風道閑居士と謚し、藩が認めた惣五郎の話は、十八世紀後半に一挙に体裁を整えたとのことなので、それを聞いた、柏倉陣屋の責任者もしくはその末裔が、その話から、ここに碑を作ったのでしょう。堀田正亮さんは、暗殺事件などを忘れ去るような、藩をアピールするドラマチックな歴史を残したかったのでは・・・

堀田といえば、堀田村が有名で、そのため、堀田さんの領地は、現在の蔵王にあったと思っていましたが、堀田村は佐倉藩の柏倉陣屋の飛地の領地だったのであります。柏倉門伝、蔵王の他に、長谷堂、村木沢、飯塚、船町などもその領地だったようです。

山形藩は10万石くらいだったので、その半分の大きさの佐倉藩が、江戸時代ずっとあったのだから、山形の半分は佐倉藩が治めていたのでありました