願正壇・願行寺(専称寺のルーツ)


2018/06

クリックすると大きい写真


問題なのはA高擶専称寺跡の案内。高擶城の案内板にも同じものがあって、何回それを探しに行ったことか それは、置いておいて、寺町の大伽藍、最上義光の娘、駒姫の菩提寺、専称寺のルーツは覚えておかなければいけないと、思い立ち、ちょっと調査をしてみました。 そもそもの開祖はどなたで、どこに最初のお寺はあったのかというと、願正上人さんが願正壇という場所で、応仁の乱のころ、1469に布教を始めたのだそうです。 そして、その場所は、どこなのか、探し回ったところ、天童の郊外、写真の場所で、昔はどうか知りませんが、現在はかなり廃れてしまっていました。
まったく、それらしくない一般家庭のようなブロック塀の中に、こんな案内板を発見し「ここだっ!!」って叫んだのでした。 蓮如さんが松島、金華山に巡遊した時、願正さんも随行し、東国に浄土真宗の寺院が一つもないので、布教のため残留することにし、この地に入ったのでした。 高擶と蔵増の中間あたりに草庵を営んで、布教に専念したという山形の浄土真宗の聖地であります。 その後、高擶城下の整備の折に、高擶の一画(高擶の公民館の前の地図のワイン工場の西側)に寺地を与えられて一宇を建立し 、これが後の専称寺になったそうです。
その後、願正上人から二代目反願正(佐藤孫右衛門長久)までは、ワイン工場の西側で寺を営み、そのあとの三代目寺井坊が現在の願行寺がある場所に専称寺ができたらしいです。 近年の台風で、こうなったのでしょうが、まかなか風情があっていい風景です。ただの木ではなく、石鳥居などが倒れていたら、それこそすばらしいとも思いました。 何を隠そう、筆者は、専称寺の経営する大谷幼稚園の二回目の入園者なのであります。そして、先日、ある友人が、専称寺のすぐ近くの正願寺がやっていたコウカ幼稚園に通っていたことが判明しました。 60年ちょっと前の専称寺の南側の道路は、砂利道で、そこが大谷とコウカの決戦の地でありました。お互いに、ちびっこギャングがグループになって、あっちとこっちで、石の投げ合い戦争を繰り広げたのであります。
その時、身の危険を感じたらしいコウカの友人は、帰宅する時、仲間といっしょに、大谷の連中の来ないバス停に集まって、ひっそりと帰宅したのだそうです。 話は願正さんに戻り、1506年73歳で、没し、清池にその廟所が建てられました。それがこの写真になります。 願正上人廟所も願行寺となっていて、お寺の一部のようになっていると思えますが、檀家のお墓があるわけでもなく、ひっそりとただ一人眠っているのでしょう。 こういう便所は60年前には、田舎に行くと見かけたが、山形の新市内では、ほとんど見かけなくなっていました。とにかく、臭かったのです。
この日は、たまたまなのでしょう、若者が刈払をやっているようで、お堂の中で休憩中でした。 そして、話は戻り、三代目寺井坊が現在の願行寺がある場所に専称寺を建て、何年かして、最上義光が山形市の方へ専称寺の名前を持って行ったとのことであります。 ワイン工場の西側から、現在の願行寺の場所に移った経過は諸説ある(きちんとした書物がない)らしく、 歴史評論家が集まる度に喧々諤々になったそうですが、現在は上記の報告のように納まっているそうです。
以上、天童市のMさんから情報をいただきました。いろいろ調べていただいてありがとうございました。 そして、現在、願行寺は高擶の『水の出』にあるのでした。 高擶も山形市の寺町のように、城下町の道が残っていて、袋小路が多く見かけられます。 ここの、もう一本北にも願行寺にぶっつかる道があり、そこは行き止まりの袋小路になっています。
この時はわからず、後から知ったのですが、ここの境内の裏庭には「仏足石」があるそうです。 お釈迦様の足型を刻んだもので、インドでは古くから礼拝の対象となっていたそうです。 専称寺にかかわる場所として、願正壇、清池の願正廟所、願行寺、自分自身と四箇所もありました。 さすがに、山形を代表するお寺であります。
これが、北の袋小路から見える願行寺
そして、問題の『ワイン工場の西側』 Google Earth で、なにやら、それらしいものが見えたので、天童市で『 高擶専称寺跡』の案内板を立てたのかと、来てみました。
残念なことに『売地』の看板でした。
 
そして、ワイン工場、西側 なにやら、空き地を整備中のようで、石がいっぱいありました。 2018年12月に、再訪すると、石や灯篭が増えていました。どうしても『高擶専称寺跡』の案内板が欲しいとこですが・・・
そして、高擶から名称移転した山形の専称寺。1700年ころ建設された大伽藍を眺めて、レポート了