庄内藩戊辰戦争 新庄の戦い

  

 

仁間福田の戦い

 

角沢村に火炎のあがったのは午前11時、その少し前に庄内兵の一団は小山福田山に現われた。西軍、新庄藩戸内隊は山を下りて仁間村に来た。
 


角沢村から引上げた肥州兵は福田村外に踏みとどまり、糠袋などを集めて八幡社の裏に即製の台場を作り防戦の用意をした。すると間もなく福田山の上に庄内軍が現れて、角沢方面から大勢押し寄せたので(石原上田酒井隊)西軍は八幡社あたりから西並びの農家に篭って、木材の陰などに隠れて激しい撃ち合いをした。
角沢から引上げた新庄勢の内この戦いに参加したも者ある。肥州隊はそれから松本裏を斜に接引寺の方に引上げた。仁間の壇を下りて安達前の合戦に加わった兵もいた

新庄は当時の集落名が、現在まで、ほぼ同じように残っていて、発展しなかったというか、衰退中の都市と思い知らされます。新庄を揶揄しているわけではなく、山形県内で人口増加しているのは東根市だけだそうな。
 


近くにあった枯れ木。酒井吉之丞が一刀両断した戊辰戦争の遺物だったりしたらスクープ・・・
 


庄内軍は角沢街道に沿って進んで仁間福田の南裏の杉林一帯に布陣した。初め福宮堰の崖のところで待ち構えていた小数の新庄勢ならびに肥豊等の西軍が、この時堰を出て上の畠地に上り、庄内軍と対峙、発砲しあった。

建物は福田公民館で、向こうに福田院。堰は福宮堰と思えますが、その名前は探せませんでした。宮田堰に統合されたのかも?


角沢村を引揚げた戸沢内蔵隊が仁間村を過ぎて鐘壇の下に踏み留まり、福宮堰より坂ノ上の庄内兵を見かけて鉄砲を撃ち始めたのは肥州が大砲を撃ち出す前である。肥州兵の助太刀と共にこの方面の砲戦は一時一層激しくなったが、 庄内兵の影がなくなったと共にそれも次第に下火になった頃、壇上から庄内軍の隊長服部正蔵を先頭に十余名が疾風の如く突撃してきた。新庄軍に肥州大砲隊や小倉兵も加わって 防御した。
 


庄内藩隊長服部は福宮堰より一二丁の所にて銃弾に当たって後ろ向きに倒れた。半隊長大島弐助は壇上宮田堰の辺に深手を負って倒れた。討死二人手負五人を出した。
この庄内軍の損失は、敵を眼近におびき寄せて狙撃した、場数を踏んだ鍋島兵か小倉兵によるものらしいとのこと。(鍋島兵は7連発スペンサー銃も配備されており、新庄兵は、火縄銃だったようだ)
酒井吉之丞の「退くな、この戦いに負ければ国の存亡はかりがたし、退く者は斬る」の言葉は、このあたりで発せられたものか
この戦いが「壇下(だんのした)の切り合い」と呼ばれる新庄戦のハイライトである。

下写真は福田公民館から飛田方面に向かう橋上から升形川上流。西軍は、川に陣を敷いて、庄内軍と戦った。
 


全体的に戦局は、圧倒的に庄内軍の優位で推移し、西軍は退却に次ぐ退却。その後、各村に火がかけられた。
西軍は最終防衛線を升形川沿いに敷いた。現在の新庄中核工業団地付近から福田までが戦場となった。
庄内藩寺内隊佐藤亀吉、川土手を乗り越え、全隊これに続いて升形川(落合下)に飛込み、川床について溯(さかのぼ)り、川下より攻撃すと、この方面の西軍は次第に退却し、庄内勢 はこれを追い払って、一部は対岸に上り、飛田村に火をかけた。

下写真は橋の上から飛田
 


下は南側の道路から福田院(バス停は福田寺になっている)
 


戦いは飛田村一乗院林、蘭塔(墓所)あたりに移っていった。
新庄藩一番小隊は指野川橋前後飛田街道に移動し、その一部は一乗院林に入り、また、村内を通り抜けて蘭塔(墓所)まで進んだ兵もいた。
 


飛田の一乗院はどれだと探したところ、同じような場所に熊野神社があって 「新庄 飛田 熊野神社 一乗院」で検索したところ下記サイトがあった。下写真の案内板の文言のようなので、引用させていただきました。

全国熊野神社参詣記   http://www.mikumano.net/zyamagata/sinjo1.html から引用

御祭神 伊弉諾尊
由緒  当地方で最も古い神社の内の一つである。
    別当寺は大峰当山派修験の一乗院であった。
建久元年(1190)六月十五日山野開拓の守護神として
飛田一乗院紀州和歌山熊野神社の分霊を勧請奉斎したものと伝える。
慶安元年(1648)九月十七日、徳川家光より十七石の御朱印証判を賜る。
新庄藩主戸澤政盛公より二十石を賜る。
新庄藩主戸澤正実公より新田四町八反歩の寄進あり。
明治六年八月、村社に列せられる。
(祭神、由緒は境内に掲示の「熊野神社(熊野権現)由緒」参照)
 

西軍兵は、庄内軍が福田原方面に現はれたのを見て、修善院の林から発砲しようとしたが、距離が遠過ぎるので、飛田村はずれ蘭塔の木立の中から川向い田んぼの中の庄内軍と撃ちあった。庄内兵が迫ってきたので退却。
庄内軍が川を渡って、村に迫ったので、西軍は弾丸の降りそそぐ中を飛田街道と宮内丁に逃げたが、一部は退路を遮られて上野臺(だい)西山方面に逃走した。
庄内軍の一部(寺内隊及山形隊)は川を渡り村内に入り放火した。火が上がったのは午後4時頃。庄内兵の大部分は落合下で川に入って川床について指野川、中ノ川、南川をさかのぼった。
 

 

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