庄内藩戊辰戦争 新庄の戦い

  

 

角沢の戦い

 
新庄藩、総勢50〜60名の足軽隊長、納(おさめ)三之丞は志津まで行って陣場を立てようとしたが、防戦に向かないので角沢を守ることにした。
明神社(現在の八幡神社)境内に土嚢を積んで台場を築き、新田川の橋の上に六分板に三寸釘を打ったものを敷き詰めた。川には縄を流したりした。
 


明神崖の中腹で長野蔵人の鉄砲隊が配置。他2つの鉄砲隊が十衛門清水まで散らばる。明神社、明神崖、十衛門清水の三箇所から庄内軍を挟撃する作戦。

明神崖、十衛門清水がどこにあるのかは分からないので、地図の場所は、稿本新庄藩戊辰戦史の地図からの推測です。
下写真は目通り6.4mの巨木杉、新庄市指定天然記念物
 


14日午前9時過ぎ、庄内軍の陣笠が百五十山の上に見え出した。山を降りて大坪、志津の村に繰り込んできた。
西軍は五月幟(のぼり)のような小旗を村社境内の杉林にはためかして敵をおびき寄せ三方から挟撃する作戦なのに、志津の村から庄内兵が顔を出すと二三発発砲してしまった。
庄内軍はすぐに方向転換、南の農道に出る。そのために、西軍の策略はもろくも崩れ去り、明神崖の長野蔵人と庄内の石原隊だけが接近、村社境内、元館の備えは不要になった。
10時ころ新庄藩、部下の発砲要請に対して、鉄砲隊長、長野蔵人が寝っころがって「まだ早い〜〜〜」などと、宮本武蔵のまねをして、やせ我慢をしているうちに、庄内はじわじわ二三丁(一丁は109m)の距離まで接近していた。
さらに、西軍の背後の宮田野へ続々庄内兵出現。長野隊は少し発砲しただけで角沢村方面へ引上げた。11時、ほどなく村社境内の納三之丞や元館の兵も退却。庄内兵は村家に放火した。

角沢八幡神社の西側が、このような広場になっていました。
 


 
角沢口で敗れて、西軍は三々五々散りじりに引上げた。多くは本道を仁間の地蔵側に出て、それから安達前に行った。あるいは角沢野を走って、松本にを守った兵もいれば、城下まで駈込んだ兵もいた。
 新庄藩足軽隊長、納三之丞は、その時、52歳で、さほどの老齢でもなかったが、激戦に疲れてか、なんとなくふらふら状態。負け戦で、もはやこれまでと覚悟して角沢村の庄屋の家に入っていた。そこにやって来たのは庄内藩石原隊万年寅吉、納の手下が二人付いていたが、万年を見ると、隊長を見捨てて逃げ去り、万年は刀を抜いて玄隅より座敷の上に跳上りざま相手の真額目かけて切下ろし、納三之丞討死。
 庄内軍は、その庄屋、大場家と向いの高山家の二軒だけを残して角沢村二十余戸全部を焼はらった。

12年前(2007)には、新庄市立角沢小学校があった。2006年3月に閉校になっているようです。
 


そして、庄内軍は北上し、舞台は仁間福田の戦いに移っていく

この時は、校舎の解体準備中?
 

 

 

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