庄内藩戊辰戦争 新庄の戦い

  


庚申塚の戦い

舟形の戦いから日を置かないで、翌日の7月14日、庄内藩一番大隊、二番大隊は、新庄城を一気に落とそうと北上した。松平甚三郎率いる一番大隊は、本来の街道の鳥越村経由で攻め、酒井吉之丞率いる第二大隊は、舟形を6、7時ころ出発。小国川を船で渡り、鳥越の本街道のかなり西側の長者原を経由し、角沢村へ向かった。

写真は現在の鳥越の中間地点あたりで、あっちが北


鳥越村南はずれに庚申塚があった。高さは2m以上はある感じ、太さも人間の4〜5人分くらいはあるか、ちょっと赤みがかった白っぽい岩に、うっすらと『庚』の字が読める大きい花崗岩のような石である。
西軍は、その庚申塚を、要塞にして防御しようと、前日から土嚢を積んだり、胸壁を造ったりしていた。実際は、庚申塚を囮のモニュメントとして、庄内軍に攻めてもらう目印のようなものとして使われた。
 


西軍の作戦は、角沢の合戦でも五月幟のような小旗を村社境内の杉林にはためかして敵をおびき寄せ挟撃するもので、なんかワンパターンっぽくて、参謀の桂太郎あたりの奇兵隊戦法だったのでしょう。
第二次長州征伐戦争では、討伐軍のへっぽこ兵器に通用したかもしれないないが、酒田の本間様から援助を受けて、新式銃で装備した、われ等が庄内軍に、そんなへっぽこ奇兵隊戦法が通用するわけはない。
 


しかし、それがなぜか通用しちゃったのであります。庚申塚を目がけて突進する庄内兵に、西軍は少人数で「ほらほら、いらっしゃいよ」っていう感じの適当な発砲をしてくるものだから、庄内兵は、昨日の舟形の戦いの、たいしたことのなさを見たばかりなので、どうやっても勝てると、功を焦り、猪突猛進。気がついたときには鳥越の坂が平坦になる村の北はずれまで来てしまった。そこは狭い平地のため、兵を散開出来ず、周りの林の中に潜んでいた西軍の格好の餌食になってしまった。

この庚申塚を発見できずに、かなり苦労しました。物件探しで2番目に苦労したって感じなので、見つけた嬉しさはひとしおでした。ちょうど左手の家のお父さんがいらっしゃったので、いろいろ話をして「いやー、うれしい!!どうもっす!」って帰りました。それで寸法のわかるものを入れて撮るのを忘れました。
 


「こりゃいかんわい」と、参謀長、長坂右近介が退却をふれ回ったのが12時ころ、10時の開戦から2時間のことであった。したがって、庚申塚は、防御壁の役目はさほどしなかったので、銃弾の痕跡は見つけることは出来 ませんでした。
一番大隊の退却より1時間くらい前、角沢村に火の手が上がったのが、鳥越から見えて、西軍は、そちらにばかり気をとられ、一番大隊を追撃することができず、角沢方面へ応援に駆けなければいけなかった。

下は鳥越八幡神社。ここが戦場になったとは、記録はないようです。
 


その奥に鳥越のヒーロー、松田甚次郎のブロンズ像があります。
 

 

 
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