千歳公園・千歳山公園の石碑

  


タイトルと逆順になりましたが、最初は千歳山公園です。2002/02/08のものを再編集しました


大仏があった安全地尊
 

大仏があったという説明石碑
 

以下、山形市平清水の平泉寺の大仏の頭
江戸時代の初期、時の山形城主奥平昌章が、寛文12(1672)年に現在の千歳山公園に建立した10mにもなる大仏と大仏殿が存在していました。しかしメンテナンスが悪かったのか140年後にはかなり荒廃し、管理者?平泉寺の和尚さんが中心になり文化九年に(1812)大仏殿は再建されました。20年の時の流れを経てもったいないことに天保三年・(文政十五年)(1832)十一月、火災のため大仏殿や大仏は焼失したそうです。
 


山形名物をなくしちゃいかん。前述の和尚さんの倅さまは天保十一年(1840)から再建にとりかかりました。カンパを募りながら大仏を作らせ頭が出来ましたが、いかんせんお金が集まらず計画は頓挫してしまったとのことです。当時の山形の殿様は水野様か?時代は天保の改革のまっただ中、その中心人物が親戚になる老中首座水野忠邦であり、質素倹約をかかげた政策の中、箱物資金は出せなかったのでしょう。・・・2020記 1840年の殿様は秋元さんで1845まで山形藩主。その後、水野忠邦の子の水野忠精が藩主になりましたので、お金を出してくれなかったのは、秋元の殿様でした。
 


その頭について書いてあるサイトはたった2つだけ。平安時代の作といわれる仁王像も同じ場所にあるんだから、けっこうな観光資源なんじゃあないでしょうか。しだれ桜を見て奥の大日堂まで行く人は少ないようでした。
・・・2020記 今では市長のやまがた自慢「大仏と八十八か所巡り」とか、ヒットするサイトはいっぱいになりました。めでたし、めでたし