新庄市 小磯國昭の墓


2025/07/05

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小磯国昭さんは、山辺町出身の国際司法裁判所第4代所長、安達峰一郎、南陽市出身の第36代大蔵大臣、結城豊太郎らと同じく、管理人の卒業高校の出身の大先輩であります。 新庄市HPに、「山形県が生んだただひとりの総理大臣である。」と書いてありますが、総理大臣の出身県には栃木県となっています。 お墓が新庄にあるのは、随分前から知っていましたが、なんとなく足が向かず、初めて訪問してみました。 随分昔、小磯国昭についての小説を読みましたが、たしか国昭の父が、国の役人をしていて、当時の国家公務員の宿舎が、
現在の山形東高界隈に多くあり、やはりそのあたりの三島神社の近くに住んでいたとの覚えがあります。 山形中学時代は七日町の本屋さんの、後に社長になるEさんと親しくしていたとの記述もあったはずです。 Wikiによると (以下引用)
新庄小学校、上山小学校を経て、山形中学校(現・山形県立山形東高等学校)を卒業するまで8箇所の学校に在籍した。
その後、陸軍士官学校(12期)、陸軍大学校(22期)卒業。小磯は陸大での成績が同期55人中33番であり、20番以下の成績の者で小磯ほど出世した者は他にはいない。(引用おわり)
ということで、出身県は栃木県でも、中学(現在の高校)まで山形にいた、ほぼ山形県出身で山形東高出身の総理大臣で、我々の大先輩にあたる方なのです。 帝国陸軍のさまざまな要職に就き、陸軍大将→拓務大臣→満州移住協会理事長→朝鮮総督→ 内閣総理大臣 のコースを歩みました。 日本を滅亡させた悪名高い帝国陸軍の末端だったわけで、その経歴を賞賛するのは、いかがなものか疑問視されるA級戦犯だったわけですが、 山形東高OBとしては「オマエの先輩に総理大臣いる?」「いるいる!」などの会話が出来て(それがイイかワルイか問題で、多分後者なのでしょうが)ほんの少し、母校を誇り?に思えるわけであります。
同じ場所に、名前が登場する、安島直円 堤林数衛 の二人についてWikiで調べましたので引用します。 安島直円(あじま なおのぶ、享保17年(1732年) - 寛政10年4月5日(1798年5月20日))は、江戸時代中期の財政家・和算家。新庄藩士。本姓は藤原氏。家系は藤原秀郷流の安島氏。仮名は万蔵[3]。字は伯規、号は南山。 諱は直円。名は資料によっては安島万蔵とも載せ、新庄藩の資料では安嶋直円ともある。父は新庄藩御勘定頭・安島庄右衛門清英。兄弟に安島弥惣次清茂、伊東平蔵直休がいる。妻は於なを。家禄は80石。 寛政10年(1798年)江戸藩邸にて没。江戸(現在の東京都港区三田)の曹洞宗常林寺に葬られた他、国元の菩提寺である出羽国最上郡新庄町(山形県新庄市)は桂嶽寺に分骨された。戒名は祖眞院智算量空居士。
位階は贈従五位。和算に長け、同門の藤田定資をして「当代の名人」と言わしめ、江戸時代の数学の発展に寄与、後世の人は関孝和と並んで和算の二大焦点と評した。 堤林数衛 1873年(明治6年)から1938年(昭和13年)
新庄市(旧新庄町)宮内町の旧藩士槍術師範堤林繁美の長男として生まれる。