鶴岡市 善寳寺


2025/08/16(土)

クリックすると大きい写真


善寳寺(ぜんぽうじ)は、山形県鶴岡市にある曹洞宗の寺院。山号は龍澤山(りゅうたくさん)。本尊は薬師如来。妙厳寺、最乗寺と並ぶ曹洞宗三大祈祷所。 歴史
平安時代の天慶から天暦年間(938年 - 957年)頃、天台宗の妙達によって草庵が結ばれ、龍華寺と呼んだものを始まりとする。
鎌倉時代の延慶年間(1308年 - 1311年)、總持寺二世峨山韶碩が龍華寺跡で教化を垂れる。 室町時代の永享年間(1429年 - 1441年)、峨山七世の法孫、太年浄椿(總持寺311世)がその遺志を継ぎ諸堂を復興し、寺号を善寳寺と改めた。
姿を顕した二龍神(龍宮龍道大龍王、戒道大龍女)が寺号を授け、寺内の貝喰池に身を隠したという伝承が残り、龍神信仰の寺として航海安全を祈願する海運関係者や大漁を祈願する漁業関係者などから全国的に信仰を集める。 天正年中、大浦城主武藤出羽守義氏公より寺領千五百石の寄進を受ける。 武藤家滅亡後、最上家領となり大山筑前守の領分となり、善寳寺は弾圧を受け衰退する。 慶長16年(1611年)10世骨窓運徹は總持寺五院普蔵院に輪住する。 元和8年(1622年)、庄内藩酒井家入部以前までは僧録を務める。(酒井家入部後総穏寺が僧録所となる)。 享保年中、霊感応伝代に元本寺余目乗慶寺と本末争論の末に末寺の札を抜き、時の幕府老中・庄内藩主酒井忠寄の尽力により、大本山總持寺五院普蔵院の預末寺となる。
また、応伝は旧本堂・庫裏の改築を行い今の善宝寺の基礎を築く。その功により応伝は20世中興と称される。 天明6年(1786年)、大雲祥嶽代に有栖川宮善宝寺龍神尊に帰依し、館入りを許可し紫御幕・挑灯を下賜され、祈願所となる。 天保4年(1833年)29世中興大令宗覚代に再建された龍王殿や、安政2年(1855年)32世月巌不傳代に寄進された五百羅漢堂、文久2年(1862年)33世中興水野禅山代に再建された山門、 1883年(明治16年)34世水野禅法代に建立された五重塔などの諸堂のほか、菱田春草「王昭君の図」(国の重要文化財)などを保有する。

1982年には、鶴岡高専教授の斉藤信義が41世に就任した。
 
また、1990年(平成2年)頃には、貝喰池のコイが「人面魚」として耳目を集めた。 中略して 五重塔
魚鱗一切の大供養塔として明治十六年(1883年)、三十三世中興月圓禅山和尚の発願により建立に着手。
十年後の明治二十六年(1893年)三十四世別傳禅法和尚代に落成。高さ三十八メートル余、総欅造り、銅板葺きの大塔。
内陣壇上の御佛体は正面「釈迦如来」東方「阿しゅく如来」西方「阿弥陀如来」南方「宝勝如来」中央金色円柱は「大日如来」を擬して仏の五種智慧「五智」を表している。 外部には西遊記で知られる三蔵法師、深沙大将、また十二神将が四方に彫り込まれている。
以上、引用もお寺サイトも終わりです