水方不動尊


2022/08/14

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山形市西部、国道458号線、左、山形厚生病院、右、菅沢住宅団地へ続く道路を西に進み、団地へ上る手前に『あぶない!』の案内板がある左折するT字路があり、ちょいと進むと、写真の案内板が見えます 案内板のところが駐車場になっているので、そこから右手を見ると、旧参道で、鳥居があります 案内板のあっちは『あぶない場所』 水方不動尊からの湧き水の貯水池?
自動車一台分の巾の道路を歩いていくと、右手に逆に戻る坂道 『姥神』の石塔 『姥神様』は他の場所のものに比べて、かなり大きく、原寸大に近く、とても、おっかない婆さんなので、見て寝れなくなる危険性があるので、下の舗装道路から撮った写真だけ(中央ちょいと左にいます) さらに上がっていくと、令和2年、山形県から認定された湧水の案内。ここが最終駐車場で、数台停めれます
柏倉陣屋の御殿医の中村文哉さんを検索しましたが、この不動尊の案内板以外のヒットはありませんでした 道路はまだ続いていますが、これはフェイクで、進んだら、方向転換する場所はなく、バックで、苦労して戻るハメになります(カメラマンがそうなったかは秘密) どこの不動尊にもあるようですが、休憩所?の建物。観光地として客が押し寄せていた時代もあった・・・?! 石の水槽の水飲み場
写真1枚目の案内文の柏倉陣屋と言っても、地元の方や、よほどの歴史好きな人しか分からないと思います 山形藩は最上家の改易から、13の家の殿様がいました 幕末の老中首座でアメリカとの交渉などに活躍した堀田正睦が有名な堀田家も山形藩の殿様で1685年 - 1686年 堀田正仲、 間に松平家が二つ入り、1700年 - 1746年 堀田正虎 堀田正春 堀田正亮 の四人の堀田の殿様がいました
 
堀田正睦は堀田正亮の孫ということで、山形藩にも徳川幕府の重臣がいたことになります。 1746年に長嶋茂雄の母校で有名な千葉県立佐倉第一高等学校のある佐倉藩に移されるのですが、重臣だけに幕府も堀田家に忖度し、柏倉を中心とする領地をとび地として与えるのです。 それが柏倉陣屋という名前で明治開始まで続くのです。 柏倉陣屋には年貢米を収受するため佐倉藩の大目付、郡奉行など70人の藩士が家族と在勤し、付近には「蔵王堀田」(蔵王温泉への蔵王上野の上)「佐倉宿」(現在は全部田んぼ)などゆかりの地名が今も残っています。
山形藩と言えば、最初の最上家と最後の水野家くらいしか思い浮かばないのですが、水野家は1845年 - 1870年と25年の期間で5万石しか与えられませんでした。 その他に秋元家にも高擶陣屋・漆山陣屋が与えられ、4.5万石、堀田家4万石と、同じくらいの石高の領地が三つもあったのです。 本堂の手前の沢の湧き水部分に剣とお不動様
なんのノウハウもなしに行くと、多分この本堂のうしろの、小さい祠は見ないで引き返すことになります。まったく姿を隠して、このようなものもあるのです そして、祠のさらに後ろに不動尊全体の、最初の湧水口があります 苔むすお不動様石の周りの石や砂から、水が染み出ています 柏倉の街の中や田園地帯に『水方不動尊』と書かれた案内板が、見られますが、徒歩だとけっこうな距離があるようでした
どうせなら、もっと迷路のようにして、湧水にたどり着くのを困難にしたりしていたら、神秘スポットとかになって、脚光を浴びていたかも・・・