新徴組の墓

2007/04/08

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最近山形市内のばかりなので、以前からの課題であった湯田川温泉の「新徴組のお墓」まで足をのばしてみました。

地元らしいおばあちゃんに「新徴組のお墓どこですか」と聞いたら 「もっと行って貯水池から右にまがんの」って教えてもらい案内発見 梅祭りだし、佐藤賢一小説のブームで観光客いっぱいいるかなと思っていたが 誰もおらず。庄内の人はもう訪問してるからだななどと勝手に納得
新徴組墓地はひっそりと 変酋長を待っていたのだ 案内板の表 風化してしまったのもあるとの記述
全景 街方面 法印実美の碑
どなたさまなのかまだ不明
案内板の裏
信濃国牧野内勝三家来卒太夫子
佐々木貞三郎盛聖
石仏 法名の墓や実名の墓が混在しててどれがどれだかいまいち 加州領越中研波郡戸知村生
尾崎恭蔵の子
尾崎文太郎
これは案内でも「不明」になっているよう 加州領越中研波郡戸知村生
尾崎恭蔵
読もうとしたがダメ
俗名死没年月日不詳
貞乗院至法妙覚大姉
武州比企郡志賀村生
新徴隊伍長水野俊一郎長男
水野令三郎年盈
やはり湯田川
竹林が多い
法印実美の碑 賽銭あげましたぞ

 新徴組の組士と家族は、二月ニ十六日から三月一日まで順次(江戸から)出立(三月十四日は 西郷 勝の江戸開城会談)その人数は組士一三六人家族三一一人総計四四七人で、指定された湯田川温泉の宿舎に到着したのは、三月十五日から二十日にかけてであった。

 なお庄内到着後に、組士の子 或は弟も組士となった例が多く、世帯数は一三六であるが、組士の人数は一四〇人を超えていたようである。藩では宿屋と民家三十七軒に分宿させ、隼人旅館に組役所を置き、鶴岡城から係役人が出張して監督に当った。

凌霜史(武山省三氏編)より引用

案内に書いてある隊士や家族内容

岩間七郎義信 常陸国久慈軍町田村生 (常陸国・明治元年8月没・享年17歳) 小鍋坂戦場にて戦死
水野令三郎年盈 武州比企郡志賀村生 新徴隊伍長水野俊一郎長男 (武義国・明治元年12月没・享年柑歳)関川戦場にて重傷のため没す
  辞世 若がため捨る命はおしまねど親に先たつ今ぞかなしき
佐々木貞三郎盛聖 信濃国牧野内勝三家来卒太夫子 (武蔵国・明治2年6月没)関川戦場にて重傷のため没す
 辞世 欺あらむ物とは兼て志りながらけふの今とは思かけきや
辻眞太郎 左沢の侠客柴田小文治配下 (羽前国・匡卜明治3年2月没・享年25歳)
  △大江町左沢に柴田小文治、通称左沢ノ小文治という幕末の侠客さんがいたようです
尾崎恭蔵 加州領越中研波郡戸知村生 (越中国・匡卜明治5年8月没)
内藤七之助行年 甲斐国摩郡若神子村生 (甲斐国・匡卜明治元年8月没・享年28歳)
小松慶助 (信濃国・明治2年3月没・享年57歳)
尾崎文太郎 加州領越中研波郡戸知村生 尾崎恭蔵の子 (越中国・明治2年7月没)
藤井弘司と考えられる人 武蔵国山目付支配・藤井三左ェ門子 隊士・藤井健助弟と思われる
小山儀一郎清高の妻 武州境国郡半羊峯村生
椿佐一郎妻子 下総国香取郡植房村 百姓左七次男生
中島銀次郎の妻 武蔵国松平伊豆守家来 中島岡平子中島四郎右ェ門(新徴隊士)養子
小堀大太郎の妻 中島銀次郎の実兄
貞乗院至法妙覚大姉 俗名死没年月日不詳
知照院慈光妙大姉 俗名不詳
桑原玄達の娘 甲州郡留郡大明見生
古川軍三の子 慎太郎 武蔵国元日光宮家来宝月清之助 (現東京都台東区東叡山寛寺の家来)
  △東叡山寛寺は東叡山寛永寺だと思われます
義秀院雄函居士 (感応2年12月没・俗名不詳)
  △案内板の裏にある研究者はおそらく「清野鉄臣」という方で「作文教授書」「荘内天保義民」などの著書とともにHP検索に出てきました

鶴岡市観光連盟のHPを参考にしました